フリー哲学者ネコナガのブログ

人間にまつわること、哲学や科学、宗教、社会の問題、生き方のことなど書いています。基本的にエッセーです。

デズモンド・モリス『サル─その歴史・文化・生態』─ヒトとサルの奇妙な関係

 デズモンド・モリス『サル:その歴史・文化・生態』を読む。必要あって昨年末から読書テーマの一つがサル学なのでその延長で読んだが、そういえば今年は申年であった。新年はゲン担ぎで猿股が売れているとかなんとかいう話だが(違うかもしれない)、私としては書店がサルコーナーでも設けてくれているととてもありがたい。

 

 さて、人はサルをどれだけ知っているか。あるいはサルとどうかかわっているか、サルをどう見ているか。これは時代や地域によって随分違うが、本書では豊富なカラー図版とともに古代から現代まで様々に登場するサルをつまみ食いしつつ、人間によるサル理解とサルとの関わり、サルへの視線の多様性を描いている。

 生物学的な分類はよくわからない人が多いと思うが、本書で登場するのはチンパンジーやボノボやゴリラ、オランウータンではなく、いわゆる「普通のサル」である。しかし、サルにもいろいろいる。本書によれば、16世紀には4種、17世紀には9種だったサルは、2005年の最新の一覧表では173種にも上る。

 

 多くの動物と同じく、サルに対しても文化によって様々な扱いがある。本書は「聖なるサル」から始まるが、最初に出てくるのは古代エジプトのヒヒである。なんと、動物の彫像として「スフィンクスに次いでおそらく世界第二」の大きさを誇るのは、高さ6メートルのヒヒの石像なのである。ヒヒは明らかに宗教的崇拝の対象だったのだ。

 あるいは、インドには今でもラングールという聖なるサルがいて、どこでも自由に徘徊することを許されているらしい。だからラングールが家に来て困る場合は「追い払い専門のサル」を雇う地方もあるという。人間が追い払うのはだめだが、サル同士ならいいという論理らしい。社会的相互作用にサルも関与しているのがおもしろいところだ。

 一方、キリスト教社会ではサルの評判は貶められていた。4世紀のアレクサドリアでは狂信的なキリスト教徒によって偶像が壊されたが、主導者はサルの像だけ残しておくように命じたとのこと。いわく、「彼らの堕落の証だから」。これは先程のヒヒの石像だが、キリスト教徒がサルを卑下していたからこそ、ヒヒ像は残っているわけだ。

 

 あるいは本書は単なる博物誌ではなく、きわめて社会的なトピックも取り上げられている。「重度の身体障碍者のヘルパーとしてのサル」「人間の変わり身(実験の際)としてのサル」「労働者としてのサル」なども登場するが、おもしろいのは、随所で人間とサルとの微妙な距離感が指摘されていることである。

 たとえば、相手をサル扱いすることは特に西洋社会では基本的に蔑む態度を表すが、考えてみれば、これは「人間も一つの種に過ぎない」というよくある考え方とは相容れない。なぜなら、サル扱いすることが差別・偏見・卑下等にあたるには、「人間はサルより優れている」という意識が前提されていなければならないからである。

 あるいは、医学研究で実験用にサルが使われていることに反対するグループも紹介されているが、なんと科学者個人の自宅を爆弾や火炎瓶で攻撃するケースもあるそうで、著者曰く「自分たちが焼夷弾を使って攻撃している科学者たちもまた保護されるべき霊長類だということを忘れてはならない(p.97-8)」。

 

 最後の方には、珍しいサルの紹介もついている。サルには思えないサルもいるが、興味をそそられるサルが必ずいるだろう。温泉に入るニホンザルは日本ではおなじみだが、忘れがちなのは、彼らが世界で最も北に住んでいるサルだということである。こうして比べてみると確かに、寒さに適応した彼らの毛の防御は鉄壁である。

 

 なんだかんだ言って、ヒトとサルの長きにわたる重層的な関係を見ると、結局ヒトはサルが好きなのであろう。そしてサルもヒトに興味はあるようである。どちらにせよその恋路は、滑らかではないが。

 

サル:その歴史・文化・生態

サル:その歴史・文化・生態

 

 


© 2015 ネコナガ (id:nekonaga)
Amazon.co.jpアソシエイト