フリー哲学者ネコナガのブログ

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新年は謎だらけである

 新年とは何か。文字通り新しい年のことである。

 では、年とは何か。これは人間が便利なように、何日で一年と文化ごとに決めるものである。日本では多くの場合365日で1年である。しかし日というのも人間の都合で文化的に決めているから、やはり恣意的である。便利だという以上の根拠はない。つまり、「年」なるものは人間の心の中にしかないわけである。

 それなら、新年を迎える瞬間というのはいくつあってもいいであろう。実際、西暦を採用していない人の心の中では、今日は「ふつうの」日であって、一週間後が新年かもしれない。あるいは世界中を無理やり西暦基準で考えても、時差があるから定義上、一時間ごとに新年である。なんともありふれた瞬間である。

 では、なぜ新年に意味があるのか。要するに、なぜ祝うのか。これは、意味などないであろう。祝いたいから祝うのである。祝えればなんでもいいから、理由などいらない。事実、祝っている人にきいても、今の日本では「祝うことになっているから」という人が大半であろう。とにかく祝いたいらしい。

 

 年末年始は、日本人の宗教オンチを説明する際によく使われる。曰く、クリスマスから一週間もしないうちに除夜の鐘、そしてすぐさま初詣というやつである。しかし、これらは全て、キリスト教、仏教、神道とは何の関係もない。だから、呪術的な、民間信仰やマツリをすべて宗教と呼ぶなら話は別だが、宗教とは関係ないのである。

 そもそも、クリスマスはイエスの誕生日だという言う人もいるが、キリストの誕生日だと言う人もいる。しかし、イエスの誕生日とキリストの誕生日では、そもそもぜんぜん話が違う。イエスとは歴史的に存在した人物の名であり、そのイエスが死んだ後に生き返ったことを信じる人がイエスをキリスト(救い主)と呼ぶ。

 だからイエスの誕生日とキリストの誕生日では意味が違うわけだが、そもそも誕生日ではないという話がある。話があるというか、これはミトラ教の信仰から入ったものである。キリスト教はヨーロッパに根付くまで少なくとも数百年要しているし、その間にあらゆる地域も通過しているから、外来要素は満載なのである。

 それならイエスだろうがキリストだろうが12月25日という日付に意味はなかったのかということになるが、どうもみていると、イエスかキリストかイエス・キリストの「誕生を祝う日」であって「誕生日」ではないという論理はあるようである。つまり、誕生を祝うことを誕生日に行うかどうかは別の問題ということである。

 ところで、中世のキリスト教徒はクリスマスに一年の誓いを立てたらしい。今の日本で言えば「新年の抱負」である。「新年の抱負」がどこからきたのかは知らないが、ともかくキリスト教徒が神に誓っているのはわかるが、それなら「新年の抱負」は一体何のためのものなのだろうか。そのあたりは不思議である。

 あるいは、「一年の始まりは目標を立てるのに最適だ」と書かれていたりするが、いったい何の根拠があってそんなことが言えるのか。立てたい時に立てればいいではないか。どうして「新年」や「一年」にこだわるのか。そのあたりが私には謎である。ともかく私はこんな具合なので、年末年始も普通に過ごしている。

 

 話は飛ぶが、「年」と言えば先日書店で衝撃のタイトルを見つけて、天地がひっくり返る思いをした。それは『いくつになっても年をとらない新・9つの習慣』というものである。さらには、調べてみたら、同じ著者が『いくつになっても年をとらない9つの習慣』という本も以前に出している。

 「いくつになっても年をとらない」。私は言葉遊びは好きでおもしろい言葉には反応してしまうのだが、この言葉は別の意味で頭から離れなかった(ちなみに最近では『野生動物カメラマン』で出てきた「ロイヤルアホウドリ」というのもおもしろかったが、このあたりのツボは人によるのでしょう)。

 もちろん、言いたいことはわかる。「何歳になっても老化しない」ということであろう。確かに「年をとる」には、本来の意味から派生して「それに伴って何かが劣化する」という意味もある。しかし、文脈の全くないところで、それも「いくつになっても」と事前に「年をとること」をにおわせておきながら、「年をとらない」である。

 これはかなり高度なワザではなかろうか。英語にすればさしずめ「aging but anti-aging」であるが、字義通りに解釈すれば、相反することを同時に主張しているという点で古典的な自己矛盾である(もっとも、これはつまり語の意味が一意に決まることが決してないという人間の言語の性質をあらわしてもいるのだが)。

 ところでもっとおもしろいのは、「いくつになっても」と、ある種の「永遠性・永続性」が示されていたのにもかかわらず、新版が出ていることである。いくつになっても年をとらないなら、いくつになっても効果的な方法論が書かれているのかと思いきや、そうでもないということで、いよいよこのタイトルの意味解釈は困難をきわめる。

 

 話はさらに遠くへ進むが、「いくつになっても年をとらない」をストレートに解釈した私が受けた衝撃は、要するに「お前は神か」ということであろう。年をとるのに年をとらないというのは、この世の法則に反しているからである(全知全能の神なら、定義上、法則も自由自在に動かせる。だからこの世の論理から見れば「奇跡」が起こる)。

 それなら、話を戻して、「初詣」では「この世の論理」でお願いごとをしてもだめということになる。結婚したいとか、金持ちになりたいとか、そんなことは自分で何とでもなることだからである。服役中の連続殺人犯が明日突然大統領になるとか、身長10メートルになるとか、そういうのが神にお願いするにふさわしいことになる。

 もっとも、日本人の「神」は全知全能の「唯一神」ではないし、一神教文化でも自己利益のためのお願い事などしないから、結局そんな機会はなさそうである。本来の一神教では、神が何かをもたらしてくれるとすれば、それは預言者が受け取った「契約」の内容をしっかり守っているからである。契約外のお願いが出る幕はない。

 ただし、これはユダヤ教の論理である。なぜなら、これでは契約を守るか守らないかという「人間の選択」が「神の行為」に影響を与えるということになり、理論上、人間が神より上に立ってしまうからである。この矛盾点を指摘したのが人間イエスだが、したがって、本当に神がいるとすれば「神はすでにあなたを愛している」。

 実際はつまり、イエスは改革派ユダヤ教徒だったわけだが、だいぶ経ってから宗教として体系的に整理されたのがキリスト教である。だからイエスは契約そのものを否定しているのに「新しい契約(新約)」という発想も入っているし、キリスト教はイエスの思想とは随分隔たりがある。余談であるが。

 

 いずれにせよ、どう考えても結局「神」と「お願い」は無縁だから、初詣も呪術ということになる。「呪術」とは、因果関係がハッキリしないのに、ある行為とある結果の間に因果関係があると信じて行うものである。いわゆる「縁起がよい」とか「ゲンをかつぐ」とかはすべてそうだから、これを言えば「正月」は崩壊してしまうだろう。

 もちろん、「本気で思っているわけではない」という人もいるが、それならますます謎である。「慣習として」という人もいるが、「慣習だからしなければならない」も謎である。もっとも、昔の社会では理由がなくとも「同じ時空間や意識を共有することで共同体の結束を強める」という役割があったのは確かである。

 しかし、現代人にとっては自分のこだわり以外の何ものでもないだろう。要するに、ずっとやってきたからやらないと落ち着かないのである。もちろん、正月ということに決めておいて仲間同士で集まって、という意味では今でも結束を強める意味はあるだろう。しかし、それ以外のほとんどはいったいなんなのだろうか。

 初詣にしても、寒い中でわざわざ病原菌まみれの人ごみの中に入って小銭を投げて、というのはなかなか正気の沙汰ではないであろう。鏡餅だって、餅をつくのが楽しくてやるのならいいが、面倒だからとスーパーで買ってくるのはそもそもいったい何をやっているんでしょうか。正月は、謎だらけである。人間は、おもしろい。

 

 


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