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フリー哲学者ネコナガのブログ

人間にまつわること、哲学や科学、宗教、社会の問題、生き方のことなど書いています。基本的にエッセイです。

ネット言葉が権威を持つかもしれない日─話し言葉と書き言葉、ネット言葉を話し言葉

 先日、喫茶店で隣に十代と思しき若い女性の集団がいて、その中の一人が「ワロタ」という言葉をあたかも日常用語のように使っていた(私は同じ人の口からその言葉が発せられるのを5分くらいの間に3回くらい聞いた)。

 一緒にいた他の人は使っていなかったが、特につっこみがはさまれる気配はなかったため、普通にこれで通っているようである。もちろん、反応する方も当初はつっこみの対象だったのが慣れてしまっただけかもしれないが、少なくとも一人いたのは確かだ。

 使い方としては、語尾につけたり、「ワロタ」だけで一つの反応をなしたりしていた。この声に出す「ワロタ」がどれほどの人に認知されているのか私は知らない。しかし、これはそれなりに興味深い現象ではなかろうか。

 

 もちろん、これはいわゆる「ネット言葉」の一つである。「ワロタ」という音自体は一部の方言では現れることもあるが、あの女性が発していたのはその類ではなかったし、何より「ワロタ」で一語となっていたので、まず間違いなくネット言葉だ。

 掲示板等で使われ始めた「ワロタ」が、メールやSNSでのやりとりに登場するのは想定できる流れだ。しかし、これが今度は生の会話に現れ、少なくともあの空間では、本気の「話し言葉」として市民権を得ていたというのは注目に値する。

 もちろん、どういう言葉で話すかは個人の勝手であるので、私はこれについて文句を言うつもりはない。そもそも、反意は感じていない(予想外の現象を目撃して驚いただけだ)。ただ、例によって分析してみようと思っただけだ。

 

 そもそも、「話し言葉と書き言葉」ということから考えを始めてみよう。時に、「最近は紙に手で文字を書く人が少なくなったので、現代人はどんどん文章が書けなくなっている」という主張がある。

 それに対して、「いや、人々はスマホやパソコンで四六時中文字を打っているので、文章を作る機会はむしろ増えている」という反論がなされることがある。しかし、実はこの反論はナンセンスだ。

 なぜなら、要するにスマホやパソコンで作っている文章は、メールであれプログであれSNSであれ、大半は「話し言葉を書き起こした」ものであって、「書き言葉」ではないからだ。

 つまり、「情報社会」(死語かな)以降のポイントは、「話し言葉を書く」という新しい文化が発生したことである。それなら私が目撃した女性の「ネット言葉を話す」というのは、より「進んだ」方法かもしれないのである。

 

 一般に、話し言葉と書き言葉の違いは…と言いたいところだが、その前に、こうした認識すら無批判には通らないということを説明しておこう。話し言葉と書き言葉は「いったい何が同じなのか」という問題もあるからだ。

 ここで、「どちらも言語現象だ」と言えば、「言語を定義せよ」となってますます問題が複雑になる。要するにわれわれは、あまりにも多くのものを一口に「言語」と呼んでいるのである。

 ともあれ、少なくとも言えるのは、「話す」ことと「書く」ことはまったく別の技術を要するということである。この点は冷静に考えてみればわかるだろう。しかし、にもかかわらず、日本ではあまり意識されていないと言える。

 これは、日本では識字率が異様に高いこととも関係していると考えられるが(だから「話せるのに書けない」という事態が想定外なのだ)、だからこそ外国語についても、たとえば「フランス語ができる」とかいう言い回しが生ずる。

 考えてもみよう。「フランス語」は動詞ではない。「フランス語を話す」「フランス語を書く」「フランス語を聞く」「フランス語を読む」ならばわかるが、「フランス語ができる」は意味がわからないではないか。

 つまりそこでは、「一つできるなら全部できる」ということが半ば無意識に仮定されているのである。そして、日本人は特に、全部セットで初めて言語習得であると思い込んでいる節がある。しかし、繰り返すが、これらはそれぞれ別の能力なのである。

 (だから、外国語を身に付けたい人はまず、自分がどの能力を欲しているのかを明確にすべきであろう。そうでなければ、サッカーがうまくなりたいのに野球をやっているようなことになりかねない。)

  

 話を戻そう。書き言葉と話し言葉ということなら、どちらも本人が発するという点では同じである(ここではこれらをまとめて「発する言葉」と呼ぼう)。ただし、やはり能力としては全く別のものである。

 現にわれわれは、「話し言葉」についてはほぼ自然に身に付けるが、「書き言葉」については、学校で、もしくは周りの大人から文字や書式、言い回し等を含めて専用の技術を教わらなければ、自然には身に付けることができない。 

 言語学や発達心理学などを参照すれば、言われているのは、話し言葉はシンボル化、つまり物事を記号化(抽象化)してとらえているのに対して、書き言葉はその「話し言葉」をさらに抽象化したものだ(「二重に抽象化している」)ということである。

 これは、大枠としては今でも間違っていない考え方だろう(ちなみにこの論理は、人間だけが「書き言葉」を持つことの証明にもなりうる)。ただしこれは、発生に注目した言い方で、現在の話し言葉/書き言葉のあり方を説明するものとしては少し弱い。

 

 重要なのは、もともと「発する言葉」として「似通ったもの」だと仮定するなら、「違いがどこから生まれるのか」ということだろう。どの言語も時代とともに必ず変化するものだが、その変化を駆動しているのは何かということである。

 一つ言えるのは、どちらも「文化」の影響を受けるのはもちろんだが、話し言葉/書き言葉ということで言えば、それ以前に「音か文字か」という点でメディア(媒体)が異なるわけだから、それによって異なる制約がはたらくということである。

 つまり、話し言葉には文化的制約以前に、生物学的制約がはたらく。たとえば、人間の器官で発せられる範囲内で、より少ないエネルギーで、といった方向に変化するだろう。ふつうにダーウィンの自然淘汰説も適用されるということである。

 一方で書き言葉は、同じく文化的制約もあるが、やはりメディア依存的な、つまり紙なり何なりの上で展開されるということを前提とした制約がはたらく。それなら、放っておけば違いが出る一方だというのは当然のことであろう。

 

 さて、話がそれたかもしれないが、急いで結論へ向かえば、つまりはパソコン等の新たな「発する場」(メディア)が身近になるにしたがって台頭してきた「ネット言葉」にも、メディア依存的な進化の方法があって当然ということになる。

 要するに、そうしたメディアで表現可能なもののうち、広まりやすいものが残るということである。だからたとえば顔文字やスタンプ、イイネ!などが生き残ることになる。これらが使われるのは、若者の感受性が云々ではなく、ただ打ちやすいからなのだ。

 そこで、いいか悪いかは別として、誰かが(意識的であれ無意識的であれ)使ってさえしまえば、最初にあげた「ワロタ」の例のように、今度はネットの方から話し言葉に流入してくるという事態が生じる。これは、言語変化のメカニズム通りである。

 それなら、今後は「発する言葉」が全体的にネット言葉に近づいてもおかしくはないだろう(もちろんネット言葉はネット言葉で変化する)。今や書き言葉の生存領域もどんどん減っているし、書籍ですら話し言葉で書かれたものは増える一方である。

 そうして書き言葉が話し言葉に近づくにつれて、話し言葉はネット言葉に近づき、結局はネット言葉優位に収束していくというのは、ありえるシナリオではなかろうか。あるいは「発する場」も身近な場も、どんどん画面上に移行しているのだから。

 

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