フリー哲学者ネコナガのブログ

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「輪廻転生」という危険なものを信じるのはもうやめよう

 最近、書店で驚いたことがある。新書コーナーに行って平積みしてある新刊を見ていたら、「輪廻」という言葉が入った本が、同時に二つもあったのである。特にそれらに限定してというわけではないが、「輪廻転生」という発想が再び市民権を得てきていることは確からしいので、その危険性を説明して、いくらかの警鐘を鳴らしておきたい。「輪廻転生」は決して、好意的にみていいものではない。それは、「非科学的だ」という話ではない。信仰であることはわかっている。しかし、とても危ないものなのだ。

 

 タイトルからわかるように、私は「輪廻転生」という観念そのものに反対である。それは、これ抜きにして成り立たない思想があったとしても(基本的には宗教思想である)、あるいはそれで救われる人がいたとしても、もはや正面から否定すべき時代だと考えるからである。理由は後で述べるが、これは好みの問題ではなく、輪廻転生という発想そのものが端的に危険なのである。宗教的信念を変えるのは無理だと言われても、どうにかそれはやっていくしかない。少なくとも、変えようと思わなければ、勝手に変わるものではない。

 

 以前『「思想」とは何か』という記事を書いたが、思想とは、命にかかわるものである。そして「命にかかわる」というのは、「誰の」ということについて無規定的である。つまり、その思想を信じている人が、それがゆえに生を全うすることもあれば、命をかけて人を助けることもあるが、同時に、その思想の必然的帰結として、自分であれ他人であれ「人を殺す」場合も多分にあるということである。というより、歴史をみればこのような例は枚挙に暇がない。全身に浸透した思想は、生命を支配する。

 だから、見るからに命にかかわる論理を含む思想については、われわれは歴史に学んで、あるいは理性をはたらかせて、そうした発想を早い段階で止める必要があるのである。人が死んでいては、いかなる思想も価値はないからである。あるいはそれは、まず自分の命にもかかわる(そういう思想を持つ人に殺される可能性も高いということ)。そこでは、「他人が何を信じていようが文句を言うな」というのは成り立たない。他人に危害を加えるような場合においては、「思想の自由」は成り立たないからである(ミルの『自由論』を読みましょう)。

 もちろん、何が命に「かかわったか」については、実際にそのようなことが起きてみないとわからない。そして「思想」がすべて命にかかわるものである以上、どれもこれも人を殺す危険(殺される危険)は常にある。しかし、きちんと分析して構造を知れば、どれがどれほど危険で、何が「起こりそうか」については、たいていわかるものである。それがいわゆる社会科学の存在意義の一つである。そして、他でもない「輪廻転生」こそ、人を殺すことに直結する論理の典型例なのである。

 

 順番に説明しよう。言うまでもないが、輪廻転生という観念の基本は、死んだ後にいわゆる「転生」(生まれ変わり)というものがあって、さらにそこで死んでもまた次なる生があり、そうして生死を永久的に繰りかえすということである。広義での「生まれ変わり」という発想自体は各地にあるが、ここでは日本人にもっともなじみが深いものとして、アジアに広まっているタイプのものだけを扱うことにする。いずれにしても、「転生する」という発想自体が問題であるので、細部は関係がない。

 

 ではまず、よい(とされている)面からみてみよう。たとえばそれは、「悩みや苦しみを和らげてくれる」というものである。これについては、宗教の存在意義そのものでもある。つまり、人間にはどうしようもできなさそうなことについて、何らかの説明を与えてくれる。典型的には「死の恐怖」を和らげるものであり、実際に医療現場でも登場している。竹倉史人『輪廻転生』によると、一部では輪廻転生の観念は「医療資源」とされており、今ではその治療効果が定量的に測定されているそうである。

 つまり、「輪廻転生」に関して医療現場では、「それで患者の調子がよくなるのなら信じさせよう」という空気がありうるということである。もちろん、近年では「スピリチュアルケア」というものもあるし、一つの論理としては可能である。医療の目的は、患者の心身の保持だからである。しかし、そうした一時的なメリットがあるとしても、総論としては、輪廻転生という発想を広めることに現代的な意義はないと言い切りたい。つまり、人類全体として未来のことを考えるなら、輪廻転生は否定しなければならない発想なのである。

 輪廻転生の何がまずいのかは後で説明するが、私が問題だと思う点はつまり、最初に挙げたように「新書」という形でも堂々とこうした発想が出回っていることであり、中には好意的どころか積極的に広めようとしているものまである。あるいは出版社も、帯に「輪廻転生、それは生きる力を与えてくれる観念」と書いていたりするのである。ある本では「近年日本において公の場で霊魂や死生観について語ることがタブー視される雰囲気があること」が「近代病」であるとして批判までされている。これは、輪廻転生の危険性に対する認識が甘いと言わざるをえない。

 

 驚くべきなのは、竹倉氏による前掲書にデータが紹介されているが、ISSP(国際社会調査プログラム)による2008年の調査では、日本では「輪廻転生」を「ある」(絶対ある or たぶんある)と答えた人が、なんと4割を超えているのだという。「4割」である。もちろんそれは、アジア宗教の思想風土の一部という意味で、伝統的なものもあるであろう。竹倉氏がつぶさに紹介しているように、輪廻転生は古今東西、どこでもそれなりに信じられている。

 もっとも、同書にある別のデータをみると、「輪廻転生」という言葉がタイトルに入っている本は年代ごとに明らかに増大しており、2000年代の十年間では前の十年の倍に迫るほどであるから、つまり輪廻転生は「最近どんどん流行してきている」のである。これは、仮に輪廻転生を信じるのが伝統的態度だとすれば、「ある時に減って、最近また増えている」とみなければならないだろう。ある時減った理由については後述するとして、では最近増えている理由は何か。それは、一つには宗教に入信する人が増えている理由と同じであろう。

 つまり、共同体へのコミットメントの不足である。近代社会では、基本的になんでも「個人」が基本単位となっているから、つながりを作る力がなければ人は簡単に孤立する。そして社会が不安定な中でそれに耐え難くなれば、絆を求めて宗教に入りやすい。あるいは、時には「輪廻転生」という観念だけで救いとなる。なぜなら、「今どれほど苦しくても来世がある」からである。事実、前掲書の分析では、個人主義化が進んで伝統的な共同体が担ってきた「つながり」の意識が薄れてきたために、「輪廻転生」による「来世とのつながり意識」がそれを代替しているとのことである。

 

 もっとも、輪廻転生という観念自体は、たとえばスピリチュアリズムや新興宗教においては珍しいものではないので、そうした発想自体は常に既に一定程度は存在しているし、一部ではテレビがそれを広めていることも大きな問題である。しかし、ここで問題にしたいのは、一般に広く読まれうる本においてもそうした観念が何食わぬ顔をして流布されはじめているということである。それらは、書店でオカルトコーナーに並んでいるのではない。あたかも普通の読み物や学術書のような顔で並んでいるのである。

 もちろん、「輪廻転生」を「研究」の対象とすることは自由であるし、それは意義のあることである。しかし、そうした本の中には、やはり輪廻転生の危険性については十分に説明されていないものもあり、そもそも著者が危険性をまったく認識していないものもある。あるいは「輪廻転生」という観念をただおもしろがって、使う必要がないのに言葉遊びで使っているものもある。そして出版社も、ビジネスとして良識なくそれに乗っかっているのである。資本主義である以上は稼ぐのは自由だが、危険思想を流布していることについては責任を持つべきであろう。

 

 さて、散々批判してきたが、では「輪廻転生」のいったい何がそんなにも問題なのか。一口に言えば、それは「人命を相対化しうる」という点である。これは、論理的に考えれば誰にでもわかるので、簡潔に説明しよう。まず、「輪廻転生」は「来世」の存在を認める。ここが致命的に重要な点である。もちろん、死後の世界があるかないかは、この世にいる限り証明できない。しかし問題は、来世を信じたその時点で、「この世」が「相対化」されてしまうという点にある。要するに、今生きている「この命」は一回限りのものではなく、永久に続く中でのほんの一回である、となる。

 これはもちろん、輪廻転生を信じることで救われる人にとっては「いい点」である。なぜなら、この世での苦しみを正当化するからである。この世で苦しくても、「来世には希望があるかもしれない」。しかし、逆に言えばこれは「この世では苦しくていい」と「この世」をあきらめてしまうことでもある。あるいは別の側面として、ここがもっと重要な点だが、「この世での命は、場合によってはないがしろにしていい」ということになる。これは、輪廻転生を信じると必然的に生じる思考回路である。

 これだけでもすでに危ない。なぜならそこでは、人は「死んでも死なない」のだから。この世の命は、「たかがこの世の命」なのだから。殺して何が悪い。また生きるじゃないか。そうならざるをえないであろう。覚えておいていただきたいが、輪廻転生を信じている人と、そうでない人の間では、絶対に話は通じなくなる。これは「信仰」であるから、すでにこうなってしまっていたら、論理的説得に応じる可能性はとてつもなく低い。だからなんでもやらかす。それなら、未然に防ぐほかはない。

 

 次に、これが高じると、もっとあぶないことになる。輪廻転生を信じて、悩み苦しみが軽減されたとしよう。次には、必然的に「意味を求める」ことになる。つまり、「なぜこの世がこんなにも苦しいのか」。ここからは二つの発想がある。一つは、「前世で悪いことをしたからだ」という説明。これだけなら、潜在的に危険なものになる可能性があることには違いないが、実質的な危険度はまだマシである。なぜなら、「この世でいいことをすれば、来世は今より幸せになる」から。もちろん、依然としてその努力は「この世では」何の役にも立たないが。

 一方でもう一つの説明は、どこからどうみても危険なものである。それは、「この世での苦しみが大きいほど、その見返りとして来世は幸せになる」というもの。これなら、むしろ「どんどん苦しもう」ということになるから、目に見えておかしさがわかる。そして、自分だけではない、他人も同じ。どんどん人を苦しませれば、みんないいところに生まれ変わる。何よりも、苦しんでいない人は、反対に来世では苦しい人生が待っている。それなら「早く殺してあげた方がいい」。それも徹底的に苦しめてから。

 

 これが、輪廻転生を信じることによって必然的に到達する結論である。だから「危険」なのである。こうなったら、犯罪者にならないことは不可能である。中学生や高校生がこの文章を読んでいたら、「そんな極端なことが本当に起こるのか」と思うかもしれない。しかし、これは三十年ほど前に、かなり大規模にこの日本で起こったことなのだ。ほかでもない、一連のオウム真理教事件である。毒入りカレーを配ったのも、地下鉄でサリンをまいたのも、すべてこうした発想が根底にあったからである。オウムの教義は「輪廻転生」を抜きにしては成り立たない。

 もちろん、オウムは覚醒剤まで使って徹底的に組織的な「洗脳」を行っていたから、誰もがこの発想だけを原動力として事に到ったわけではない。でも、入り口はここなのである。輪廻転生を信じれば、「とても運がよければ」、「せいぜい」反社会的な人、人命を尊重しない人が生まれて、そうでない場合は「正しく」テロリストになる。こんな思想に、何の意義があるのか。何の意義もないのである。輪廻転生は、必然的にこの世での苦しみを肯定するから、この世での苦しみをなくすことには、何の役にも立たないのである。

 

 さて、そろそろ話がつながるであろう。最初の方に書いたが、「輪廻転生」という観念が「一時期、下火になった」のも、日本社会で「霊魂や死生観について語ることがタブー視されるようになった」のも、すべてこのオウム事件を受けてのことである。だから、一時期はマスメディアからもスピリチュアリズムは徹底的に消された(オウム幹部はテレビに出ていた)。あるいは、オウムに対して部分的に好意的だった学者たちも認識を改めた(ただし中沢新一氏だけは、『虹の階梯』が麻原の愛読書であったほど重大な影響を及ぼしたにもかかわらず、未だに説明責任を全く果たしていないとして批判されている)。

 しかし、廃絶されているところにこそ、信仰というものは即座に根付くものである。こうして根こそぎなくなっていたところに、その反動として現れてきているのが昨今のスピリチュアルブームである。これは、テレビ局の側は金儲けに戻ったということであり、おもしろがってみている人は、その恐ろしさを知らないか、忘れているのである。何も、「もう大丈夫」になったわけではない。輪廻転生という観念自体が、本質的に問題をはらんでいるのだ。それなら、これからも理性でもって拒否し続けるしかない。多少なりとも知識が広まればと思って、ここでもこれを書いてみた次第である。

 

 さて、最後に一言でまとめよう。死後の世界があるかどうかは、誰にもわからない。それはいつまでもそうである。しかし、死後の世界が存在する可能性を好意的に受け入れることは、少なくとも今この世界では、すべきではない。なぜならそれは、今ここに確実に存在している命を、簡単に奪うからである。「輪廻転生」にしろ、「来世がある」にしろ、そういう発想を信じるのは、広めるのは。もうやめよう。それは、とても危険なものである。

 

輪廻転生 〈私〉をつなぐ生まれ変わりの物語 (講談社現代新書)

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 ちなみに、日本では「輪廻転生」は仏教思想の中心であるとみなされているが、そんなことはない。アジアにおける輪廻転生の観念は、もともと古代インドのウパニシャッド哲学に端を発するものだが、仏教には数多くの宗派があり、そうした観念を受け入れているところもあれば、受け入れてないところもある。あるいはともかく、初期仏教つまりオリジナルの仏教では教義でもなんでもない。釈迦は、死後の世界については「そんなことを考えるのは時間の無駄である」という態度である。興味があれば下の記事を参照されたい。

 

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