フリー哲学者ネコナガのブログ

人間にまつわること、哲学や科学、宗教、社会の問題、生き方のことなど書いています。基本的にエッセイです。

「思想」とは何か─単なる「考え」とはどう違うのか、あるいは「哲学」や「宗教」との関係について

 「思想」とは何か。いわゆる「考え」や「考え方」とはどう違うのか。あるいは、「思想」という言葉と関連性が深そうな「哲学」や「宗教」という概念と対比すれば、どのようなことが言えるのか。これについて考えてみたい。「思想」と呼ばれる様々なものを理解するには、まず「思想とは何か」である。そのエッセンスを知らねば、はじまらないであろう。

 

 「思想」を辞書で引くと、たいてい(1)思い浮かんだこと。(2)行動を支配するものの見方。と出ている。ここでは後者の意味で、つまり単発的なものではなく、一つの体系としてのイメージの方で扱うことにする。実際、用例としては(2)の方が明らかに多いであろう。

 英語では、和英辞書で引くと「thought」「idea」「ideology」など出てくるが、「思想」にまったく対応するものはなさそうであり、おそらくこれは他の言語についても同じである。だからここでは、あくまでも日本語の中での実感として話を進めることにしたい。つまり、「このように分析すればたいていの人が同意するのではないか」と思われるものを言語化する試みである。

 

 初めに、前提だか結論だかわからないことを断定的に語ると、以下のようになる。

 

  • 思想とは、ある個人または集団の全身・全体で表現されるものである

 

 まず、「思想」は全身・全体で表現されるものである。つまり、ある範囲において隅々までいきわたっていて、言わば0か1かしか取れないものである。もちろん、組み合わせによっては複数とっていると見えることはあるであろう。しかし、その多くは場面ごとに異なる「考え」や「考え方」をとっているだけであって、「思想」が一個人の中に混在することは難しいとみえる。少なくともここではそう考えることにする。だから、どれか一つに「浸っている」ものである。

 たとえば「キリスト教原理主義(=根本主義。聖書に書かれていることは一字一句すべて真実であると信じる)」を例にとれば、「キリスト教原理主義者である」や「キリスト教原理主義者ではない」は可能だが、「半分だけキリスト教原理主義者である」は無理である。そのように見える場合もあろうが(そう見えると言われたら、それがあなたに対する「批判」である)、その実態は追究不足か、単なる日和見主義者(状況に応じて態度をころころ変える人)であって、上でみたような「思想」とはみなしがたい。

 

 あるいは、コンピューターとのアナロジーで言えば、ある個人の身体をハードウェアとして、その「OS」にあたるものが「思想」だとも言えるだろう。つまり、その上で行われるありとあらゆるすべて(できうること、およびそのやり方)を、根っこのところで規定しているものである。この定義で言えば、それは社会学における「エートス」に近いものだとも言えよう。エートスとは、意識的・無意識的のどちらであれ、ある主体の内面的思考と外面的行動の両方を規定するものである。

 

 ここまでで、ただの「考え」や「考え方」とはどう違うのか、という問いについてはほとんど答えが出たであろう。つまり、「思想」は局所的なものではなく、全体的なものだということである。「考え」や「考え方」はあくまでも一時的、単発的なものであり、長く続けば「思想」に転化しうるかもしれないが、それらは短時間で次々と取り替えられるのに対して、「思想」はじわじわと「全身・全体に浸透する」。だから浸透しきってしまうと、もはや抜け出し難いものとなる。

 

 では次に、「思想」という言葉と仲良しである「哲学」や「宗教」という概念との関係性についてみてみることにしたい。まず「哲学」である。一般に、何らかのカテゴリー分けがなされる際には、「哲学/思想」といった形で、一緒くたにされていることが多い。そこでは漠然と「普通より深くまで考えられたもの」くらいに思われているのであろう。しかし、一般に「哲学を学ぶ」と言われている時に学んでいるのは、「哲学史」であって「哲学」ではない、というところがポイントである。

 つまり、哲学とは態度や方法の名前であって、結果として出てくるものにつけた名前ではないということである。このことは、「哲学」の方は「哲学する」と動詞化されるのに対して、「思想」の方は通常「思想する」とは言われないことからもわかるであろう。だから「哲学を学ぶ」というのは、哲学する、その方法を身につけるということなのである。ともかく「哲学」と「思想」は次元が異なる概念である。

 

 次に「宗教」である。「宗教」というのも定義が難しい言葉だが、ここでの関係で言えば、一般的に使われるものとして「宗教思想」という言葉がある。もっと具体的に言えば、「仏教思想」とか「キリスト教思想」というのがそれである。これらも本来的には全身・全体を浸すものであることにかわりはなく、その意味で「思想」の一種とされてしかるべきであろう。しかし、「思想」の中でも「宗教思想」に固有の特徴というものはあるのであろうか。

 これについては、「宗教とは何か」ということを考えれば、けっこう明快に語ることができる。「宗教」の特徴は、ひとえに「救済」を目的としていることである。だからそれぞれの宗教ごとに固有の体系を持つが、つまるところ宗教思想とは、「救済を目的とした思想である」ということができるだろう。それなら、たとえばマルクス主義が時に「宗教」だと言われるのも、「救済」を目的としているとみえる場合については、妥当な判定であると言えるだろう。つまり、「ワン・オブ・ゼム」として採択しているのではなく、「それしかない」状態になっている場合である。

 

 さらに言えば、キリスト教やマルクス主義の場合に明らかなように、「宗教思想」については「絶対的に依って立つテキスト」がある場合が多いことに注目すべきであろう。つまりキリスト教なら『聖書』であり、マルクス主義ならたとえば『共産党宣言』であるが、こうしたものがあるということはつまり、初めから結論が決まっているということでもある。だからこそ、体系としてはある意味で「常に完結」している。そこからは、どこまで時代的・地域的限定性を超えうるか、という話である。

 こうした点に注目すれば、見方によっては「思想」の一つとして扱える「科学」というものが、「思想」ではあっても「宗教」とは言えない理由がわかる。要するに科学では、「救済」を目的としていないし、結論も間違っていたら修正するからである。宗教の場合は、根本を変えないままで時にはこじつけて無理やり解釈を曲げないと、全体としての論理が破綻して、そこで終わりである。だから、ある意味で「変幻自在でありうること」が、歴史が長い宗教の特徴である。

 

 さて、「哲学」や「宗教」という概念と対比させることでも、「思想」というものがいかなるものであるか、それなりにわかってきたのではなかろうか。これらを踏まえて最後に、「思想」とは何か。一言でまとめておきたい。

 

  • 思想とは、命にかかわるものである

 

 「思想」というものを、もっともヴィヴィッドに表現するならば、要するにこういうことになるであろう。 実際、筋道はどうあれ、このような言い方をする人は少なくない。思想とは、結局のところそういうものなのである。それは、全身・全体に浸透するものであるがゆえに、端的に「命」にかかわる。だから、「思想」によって誰かを救うこともあれば、誰かを殺すこともある。あるいは自分を殺す場合もある。思想とは、まさしく人の生命を支配しているものなのである。

 

 それなら、「思想のない人はいない」とも言えるだろう。ここからは考えるだけではなく、実践のすすめだ。「思想」が全身を浸すものだとすれば、OSだとすれば、エートスだとすれば。あなたもすでに、何らかの思想に浸っているということである。そして、それは直接・間接的に、確実に誰かの命にかかわっているのである。たとえば、食糧問題について考えてみよう。昔は食糧の絶対量が足りなかったために、奪い合いをしなければならなかったが、だから負けたものは死なねばならなかった。

 では現代はどうかと言えば、世界中の食糧生産を総計すれば、全員が食べられるだけの量はすでにあるとされている(ちなみに、日本の一人あたり食糧廃棄量は世界一である)。しかし、「それにもかかわらず」未だに十億人が飢えているのである。それはもちろん、食糧がいきわたっていないからであるが、では「誰がどのような思想を持つがゆえに、そのようなことが起こっているのか」。このように問うべきではなかろうか。少なくとも、それを無視しない人が、現代においてはまともな人であろう。

 

 重要なのは、自分がどんな思想をもっているのかを知ろうとすることである。そして、それを唯一絶対のものだと思わないことである。ある思想があれば、それとは矛盾する思想も必ずある。それは、人間が全知全能でない以上は原理的にそうなるのである。しかし、そこでいちいち人が死んでいたら、おそらく人類はもうもたないであろう。すなわち、人間にとって「思想」が免れ難いものであるとしたら、「異なる思想を持つ人々が共存できる思想」を考えるしかないことになる。

 それは、どれが一番かという話ではない。全員が同じ思想であることは、不可能だからである。しかし、それが「思想」である以上は、依然として命にかかわる。それなら、答えは一つしかないであろう。つまり、ありとあらゆるすべての思想が、「異なる思想も認める」という考えを内包した、一つ上の次元の「思想」へとシフトしていかねばならないということである。「思想」がここまでみてきたようなものだとしたら、理論上、持続可能な「思想」との付き合い方というものは、それしかありえない。

 

 まとめれば、「思考停止」が、人類にとって最大の敵なのである。その意味で、条件さえ許せば殺人も行いうるような「思想」は、もはや時代遅れだと断言すべきであろう(この点で、一神教思想はとても弱い)。「思想」とは、命にかかわるものであり、あるいは今や、人類の存続にかかわるものなのである。

 

岩波哲学・思想事典

岩波哲学・思想事典

 

 

nekonaga.hatenablog.com


© 2015 ネコナガ (id:nekonaga)
Amazon.co.jpアソシエイト