フリー哲学者ネコナガのブログ

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小室直樹『日本人のためのイスラム原論』─今こそ内在的論理をつかむべし

 今週のお題「人生に影響を与えた1冊」

 

 久しぶりに本の紹介でもしようと思ったら、(今までちっとも気にしたことがなかったが)はてなブログの「今週のお題」なるものが「人生に影響を与えた1冊」ということであるので、大きな影響を受けた小室直樹氏の著作から「今読むべき」という意味で『日本人のためのイスラム原論』をとりあげてみたい。 

 

 小室氏は、知っている人にとっては紹介するまでもないが、社会科学界の怪物である。経済学、社会学、政治学、法学、心理学、文化人類学等々、あらゆる領域をいずれも時の最先端の研究者から学びつくし、その上で研究を重ねるとともに多くの弟子を育て、なおかつ一般向け書物も数多く著した知の巨人である。その業績や人物像についてはとても書ききれないので、興味を持ったら少なくともウィキペディアを参照されたい(小室直樹 - Wikipedia)。

 2010年に逝去なされてからも書店へ行けば多くの本が並ぶ小室氏であるが、今年5月に『小室直樹 日本人のための経済原論』として著作が新たに再刊されていたので(小室氏の本は多くが絶版だが、いくつかはタイトルを変えて再刊されている)これを機にと思って先日『小室直樹の資本主義原論』と『日本人のための経済原論』の二冊を読み返してみた(この二冊を合本して再刊したのが上の一冊である)。久々に読んで改めて氏のすごさを実感したので、いくつも読み返しているところである。

 

 前置きが長くなるが、著者の一般向けの本の多くは、私なりに解釈すれば「基本=蘊奥まであと一歩」を伝えるものであり、巷間溢れている「入門」の類とは一線を画する。この点が、著者の本を今でも徹底してユニークなものたらしめているところであろう。「入門」とは、本来は門に入る、つまり門をまたぐ段階であるから、門の内側での営みの大前提となるものであり、それをもとにすべてが始まる出発点である。門を通らずして中に入ることはできない。

 しかし、昨今の出版業界でのこの言葉はニュアンスが異なっている。決して少なくはない数の「入門書」が、はじめから深きを知ることを断念して、ただただ門の外側から見える表層をなぞっているとみえる。つまり、門の向う側へ行くことは頭になく、外から見える門の枠内だけをみているのである。これは入門ではなく門外見物であるから、もともと内部と連結していない。したがってこうした「入門書」の類は、いくら積み重ねても深奥へ到ることがない。

 肝心なのはつまり、門の内側でも通用するようなやり方と最低限の知識、つまり「基本」を知ることである。それが「入門」というものであろう。その意味で、本来の「入門書」とは何ぞや、ということを体現しているのが小室氏の著作群だと言える。この点は一貫している。氏の本を虚心坦懐に読めば、物事の最も重要な部分が理解でき、なおかつそこへ自力で到れるだけの論理の方法をも体得できる。業界、一般人問わず、小室氏の著作を愛読している人はまだまだ多いはずである。

 

 さて本書は、そんな小室氏が、日本人にとってもっとも掴みどころのないものの一つである「イスラム」についてゼロからわかりやすく解説した一冊である。同時多発テロの直後、2002年に出たものなので氏の著作の中では比較的最近のものにあたるが、昨今はダーイシュ(IS)の台頭とともにテロが大々的に出てきたこともあって、イスラムへの理解はますます無視できないものとなっている(テロとあらば、戦争と違ってルールがないので、誰もが常に潜在的被害者であることから逃れることができない)。

 しかし、2002年の出版とは言え、本書の内容が古くなることはない。なぜなら、本書は数多ある情勢解説本と違って、社会科学に基づくものだからだ。多くのイスラム解説本では、何派のイスラム教徒がどの地域にこれくらいいて、彼らは日々これこれのことを行い、またその地域にはこのような歴史があり、現在このようなことが起きていて、といった形で事実の羅列に終始していて、根本的な構造が見えない。専門家にとっては自明なことも多いであろうが、素人にとっては「結局どういうことだ」なのである。

 その点、本書では「なぜ、イスラム世界と西洋はかくも対立するのか」という誰もが抱く素朴な問いに対して、ストレートに答えを与えてくれる。用いられているのはとくに比較宗教学と歴史学の方法論であるが、イスラム世界の内部をみるのではなく、あえて外から客観的に見る態度を貫徹することで、逆にイスラムの内在的論理を明快に描き出している。まさに社会科学ここにあり、である。そして、それは十数年経ったくらいで古くなることはない。本書の最後にはこんな文章がある。

 

 「筆者はあえて断言する。たとえビンラディン氏を捕縛し、アルカイダやその他のイスラム過激派を壊滅させようとも、イスラムとアメリカ、ひいては欧米社会との対立は終息することはないだろう。(中略)イスラム社会と欧米社会の対立は、単なる「文明の衝突」ではない。この対立は、一〇〇〇年以上にわたる歴史がもたらしたものであり、その根はあまりにも深い。かりにアメリカが今回の「テロ戦争」において勝利を得たとしても、それは束の間のものでしかない」(p.447)

 

 事実、ビンラディンは捕えられたが、イスラム世界と西洋の距離は少しも縮まっておらず、むしろイスラム過激派の勢いが増している。そして、宗教間や宗派間での対立ではなく、「穏健派/過激派」と図式を変えて登場した過激派ダーイシュの脅威に対して、世界レベルで手探りの対応が続いている。つまり小室氏の言った通りになっているが、こうした予測ができるのは、きちんとした方法論に基づいて構造を見抜いているからだ。それは並大抵の人間にはできないことだが、そんな内容の本を誰にでも読めるように書いてしまうのが、小室氏のすごいところである。

 

 さて、本書の主旨は、シンプルに「イスラム世界の内在的論理を理解する」というものである。つまり、ムスリムからみて、現代の世界はどのようにみえるのか。それを理解するにある。本書は「明らかにイスラム寄り」と批判されていたりもするが、これは誤読だ。語り口調は主観的にみえても、主張はあくまでも科学的分析に基づくものである(「価値自由」という)。そもそもイスラムの視点を理解するのにイスラム寄りになるのは当然のことで、それは、日本人が普段どれほど西洋的視点一辺倒で物事を見ているかということの裏返しなのである。

 

 著者はまず、イスラム教の特徴が「規範につぐ規範」、徹底した規範体系を持つことにあると強調する。これがイスラム教理解の核心、エッセンスであろう。イスラム教は、良くも悪くも「規範」にがんじがらめの宗教である。本書では特にユダヤ教やキリスト教との比較によって特徴を描いているが、この三つは同じ一神を信仰しているとは言っても、その様相は全く異なる。そして、この根本構造が違うがゆえに、イスラム世界と西洋(キリスト教)世界はいつまでたっても相互理解できないどころか、世界史を通じて対立の経験を蓄積し続けているのである。

 これは、「宗教によって規範が違う」という話ではない。イスラム教の理解には規範の理解が重要とは言っても、それは一日5回礼拝しろとか、豚肉を食うなとか、そうした些末な知識を得ることではない。そんなことは、言ってしまえばどうでもよい。重要なのは、「徹底的に規範がある」ということの意味を知ることである。そもそも、キリスト教が生まれたのは、ユダヤ教の「規範」をイエスが徹底的に批判したからであった。「規範」とは、外面的行動を規定するものである。ユダヤ教では、律法を遵守すれば救われると考える。

 しかし、歴史が示しているように、規範をいくら守っても救われなかった。そこでユダヤ教徒の一人であったイエスは、規範にこだわることをやめた。そんなイエスの言動を解釈して後にパウロにより創始された「キリスト教」では、内面的信仰のみを重視する。外面的行動ではない。信じる者は救われる、信仰心が問題だ。それが実践に結びつく。つまり、イスラム教とキリスト教は「規範が違う」のではない。イスラム教が規範のオンパレードなのに対して、キリスト教には「規範がない」のである。かたや規範につぐ規範、もう一方は規範無し。この点が、両者をみるにあたって何にも増して重要な視座なのである。

 

 これをもとに、著者は歴史解釈を重ねてゆく。繰り返すが、規範がないとはすなわち、「外面的行動が何にも規定されない」ということである。これがキリスト教徒(およびその延長にあるわれわれ日本人も含めた近代的市民像)とイスラム教徒の態度を決定的に分かつものである。このことを示す歴史的な例として、著者は西洋世界とイスラム世界の「革命」観の違いを挙げている。「規範」に対する態度の違いゆえに、両者では「革命」という言葉の意味がまったく正反対になっている。

 イスラム教では、人間の理想的な生き方、正しい共同体のあり方は、「コーラン」つまり神の言葉によって完璧に規定されている。コーランでわからないことがあれば、「模範的ムスリム」であったムハンマドの言行を記録した「ハディース」を参照する。それでもわからなければ、その他次々と参照すべき「法源」があり、初めから終わりまで所定の手続きに則って判断される。かくのごとく、イスラム教では規範は絶対である。何があっても基本へ還る。

 それならば、イスラム教徒に必要なことは、これを厳守して生きるだけである。したがって、イスラム教徒にとっての善き歴史とは、ムハンマドのいたころの共同体のあり方をひたすら維持することなのである。それゆえに、「革命」が起こるのはそれが「なされていない」、つまりどこかに腐敗が起きてきた時だけである。だからムスリムにとっての革命とは、言わば下降線をたどっていたところを平行線に戻すこととなる。イラン革命はそうして起きた。

 

 これに対して、キリスト教では規範がない。規範がないから、内面的信仰さえ担保できていれば、何をやってもよい。それだから、逆に信仰が原動力となって外面的行動には爆発的な変化が起こることがある。典型的な例は、マックス・ウェーバーが描いたように(『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)』)、資本主義の誕生である。合理性を徹底して利益を追究するのは、神に背く行為ではない。むしろ、模範的信徒として内面的信仰と矛盾しない行動をとる結果、必然的にそうなる。

 キリスト教にも、カトリックには規範がある。しかし、それはローマ帝国が支配の道具としてキリスト教を取り込んで以降、教会が作り上げたものだ。中世の市民の圧倒的多数は、ラテン語が読めない。したがって聖書を読んだことがない。それだから、本来のキリスト教には規範がないことを知らなかった。権力者の思うつぼであった。これを「元に戻した」のがカルヴァンやルターで、そこからプロテスタントが発生したのはご存じの通りである。

 しかし、ひとたびこうして本来の信仰態度に戻れば、もはや規範はない。規範がないから、社会はいかようにも変わり得る。それだからこそ、西洋的「革命」では常に、それまでの状態との大きな「断絶」が発生する。まったく新しい何かが生ずるのだ。これは、「権力」というものがそれまでいかに局所的に集積されていたかということの裏返しでもある。ゆえに人々の反動も大きい。市民革命しかるべし。イスラム世界では、王や皇帝と言えどもいちムスリムという意味では初めから平等であり、規範があるから、勝手なことはできない。

 

 このように、「規範」への態度の違いをみるだけでも、西洋キリスト教世界とイスラム世界の対立図式は明確に見えてくる。そしてそれは、「近代化」をどうみるか、という問題に必然的につながる。ご存じの通り、われわれ自身もほとんど自明のものとしてみている資本主義や民主主義、自由主義といった価値観は、すべて西洋近代という特殊な時空間でのみ生じたものである。それらはつまり、言い切ってしまえば、すべてキリスト教的な行動様式を背景として生まれたものである。だからこそ日本でも、天皇を神とした一神教(国家神道)が作られた。

 しかし、ご存じのように一時期まで世界史を動かしてきたのは、圧倒的にイスラム世界であった。西洋は、長らく捨てていた科学や哲学、技術や文化の多くをイスラム世界から逆輸入することで身につけた。ムスリムが武力で改宗をせまったというのはでっちあげで(してはならないとコーランに書いてある)、一方のキリスト教徒はちょっと力をつけると各地で暴虐の限りをつくした。要するに、ムスリムからすれば、若造の西洋が恩知らずにも暴走して、しまいには野蛮な国扱いするとは何たることか、である。

 

 しかし、西洋が「近代化」によって事実上世界の権力を握ることになったのは事実だ。ここが問題の根源である。イスラム教は、先にみたように基本的に「変化」を良しとしない。歴史は繰り返しである。しかし、西洋はどんどん変化する。歴史とは変化である。「進歩」である。そもそも、政治の世界からはもはや宗教を追い出した。神は死んだ。とどまるところを知らず、人の欲望、人の意思で歴史が進む。これでは構造上、対立の溝は深まる一方でしかありえない。神が行動を支配するイスラム教とは世界観が違う。

 つまり、イスラム世界の「近代化」は可能か、という問題がここにはある。結論から言えば、不可能だ。「近代化」は、何ら普遍的なことではく、西洋近代に特有の現象に過ぎない。そしてキリスト教を背景としたそれは、イスラム教の論理とはもともと相容れない。つまり、イスラム世界が「近代化」するには、ムスリムであることをやめるしかないのだ。それはできない相談である。それなら西洋が理解を示すかといえば、どちらにしろ簡単な話ではない。誰も答えは知らない。

 

 だいぶ雑ながら要点だけを書いたが、本書を読めば、こうした西洋世界とイスラム世界の根本的対立の原因を、歴史を踏まえてきちんと理解することができる。小室氏の本はとにかくおもしろくて次々と読んでしまう、というのは読者が口をそろえることであるが、そうして本書を読み終えれば、気づいた時にはイスラム世界の側からも世界をみられるようになっている。そしてこの世界史的課題が確固たるものとしてある以上、何度も読むに値する本である。

 

 ところで、本書刊行後十年以上経ったが、その後どうなったか。対立自体は、当然ながらちっとも解消されていない。何をどうすればいいのか誰にもわからない。しかし、世界はどんどん無茶苦茶になっている。とりあえず、アメリカが国際法を無視して暴れまわったことで、同時多発テロ事件への直接的報復は過去のものとなりつつある。しかし、そうこうしているうちに、過激派が次々と勢いを増す。過激派も極まれり、「ステイト」を自称して武力による勢力拡大を目論むテロリスト集団が出てきた。

 ここでもう一つイスラム理解でおさえておくべきポイントだが、イスラム教では、教義を解釈するに当たって権威が存在しない。キリスト教なら、公会議を開く、教皇に聞く。そこでの結論が「正しい」解釈である。ほかは「異端」、排斥すべし。しかし、イスラム教は規範にがんじがらめとは言っても、「これが正しい」という認定機構は存在しない。神のみぞ知る。最後の審判まで、個人はなんとか自分の信じる正しさを実践するしかない。イスラム教に聖職者はいない。法学者に話をきくのも、自分より詳しいからというだけである。

 したがって究極的には、ムスリムの実践は個人的な解釈に基づくものでしかありえない。他の人がどうあれ、イスラム教という意味では根本にあるのは神と私との一対一の関係である。その平等主義があるからこそ、個人の解釈にケチつけることができない。したがって自己責任においてはどんな解釈も可能で、だからこそ過激派も現れやすい。そういう構造もある。そして、それはイスラム世界の人々が生きづらくなればなるほど、そうなるのである。この負のフィードバックをいかにして脱するか。

 

 ともかく、今、現代世界はそのような状況である。ダーイシュの問題は、決して一部のおかしな人たちが思いつきで始めた一過性の出来事ではない。それはある意味で、千年以上の歴史に基づく世界史的帰結なのである。構造は変わっておらず、歴史は蓄積される。そして今や、誰であれ無縁ではいられない。だからこそ「その時どのような社会が望ましいのか」を考え続けねばならないのである。

 危機状態でこそ力を発揮する根本的知識を、本書は与えてくれる。思い立った人は、是非この本を読んでほしい。一人一人が考え始めることから、変化は始まる。

 

 

日本人のためのイスラム原論

日本人のためのイスラム原論

 

 


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