フリー哲学者ネコナガのブログ

人間にまつわること、哲学や科学、宗教、社会の問題、生き方のことなど書いています。基本的にエッセイです。

寿命が延びた社会をどう生きるのか(1)一般的な解決策はない

 「人類の寿命が延びる」ことに関する議論がかまびすしくなってきた。流行りの「人工知能」と同じく、科学的知識がない門外漢には何がなんだかわからない分野とあって、よくわからない言説をけっこうみかける。もっとも、こうした「人類」レベルで歴史を動かしそうな動向についての考えには、ありがちな「誤り」というものがある。端的にいえば、自分の心配をしていながら、問題を他人ごととみているというものある。

 

 「自分の心配をしていながら」というのは、実際には少しもまともに心配していないのだが、特に考えることもなく根拠のない言説を受け入れて、必要のない不安や恐怖を感じているということである。一方で「他人ごと」とは何かといえば、要するに問題をすぐに「人類」とか「人間」のレベルで考えてしまうということである。それゆえに議論がむやみに錯綜して、というよりまったく情動的で非論理的になる。しかし、もう少し冷静になってもいいであろう。

 確かに、長い目で見れば「人工知能」や大々的な「長寿化」には人類史に残るような意味があるであろう。しかし、「歴史」とあらばそれは百年二百年たってからの歴史家の仕事であり、リアルタイムで生きている人が考えねばならないのは別のことである。当然だが、歴史というのは人間の意思を離れて勝手に進行するのではなく、何がどうなるかは、いま生きている人がこれから決めるからである。だからこそリアルタイムでものを考えていることに意義がある。

 

 まず、すぐに「人類」レベルで議論してしまうことについてみておこう。同じ問題で「人工知能」については以前に書いておいたが(「人工知能は人間を超えるのか」 )、つまりはひとくちに「人類」といっても、「人類」にもいろいろいるということである。そこでは、ほかでもない自分自身が(とくに社会的に)「どういう人類なのか」をまず第一に考えねばならない。つまり、まずは問題を自分のこととして考えなければならないのである。

 なぜかと言えば、現行の日本は民主主義社会でありながら資本主義社会であり(これは本来的に矛盾するものであり、安定的に両立することはありえない)、要するに「平等」というものが担保されていないし、構造上、される可能性もないからである。「寿命」に関していえば、少しでも「長寿化」にかかわる研究がニュースになっただけで「今後の人類は」などというのが必ずくっついているが、しかし、何度も言うが、人類にはいろいろいるのである。

 要するに、科学技術が発達したからといって、その恩恵を誰もがすぐに享受できるはずはないということである。「寿命が延びる」に関しては、おそらく十年二十年以内にはこれまでにない、かつかなり寿命が延びるような何らかの技術が実用化されるであろうが、当面のところそれによって寿命が延びるのは一部の金持ちだけであろう。あるいは資本主義社会では、金にならないものが実用化されるはずはないのである。それは基礎研究とは別の話である。

 

 それなら、人類史に大きなインパクトを残してきた他のあらゆる「発明・発見」と同じく、最初に考えられることは、何らかの形で「格差が拡大する」ということであろう。先に言ったように、何であれブレイクスルーがあった時は、それによって有利になる人と不利になる人が必ずいるからである。これをそのままあてはめてみると、金持ちだけ寿命が延びるなら、「持っている人はさらに与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる」(マタイ効果)であろう。

 もっとも、ニーズが強まりそうで、かつ大きな市場になりうる以上、いずれは大衆化されるだろうから、それは別に考える必要がある。あるいは「寿命が延びる」ことがそのままいいことかどうかも、長く議論されてきたように別の問題である。大まかにいえば、「寿命が延びるのはいいことだ」というのは伝統的には西洋医学に顕著な発想であり、一応、東洋にも道教などはあったが、現代の日本でもっとも影響力を持っているのはどうみても西洋医学である。

 つまりは、われわれがふつう「医学」と呼んでいるものは、本来的に「寿命が延びるのはいいことだ」という発想のもとにある。それだからこそ、アンチテーゼとして「ただ寿命を延ばせばよいというわけでもない」という主張も出てくる。これは、もともと「寿命が延びることはいいことだ」という考えをいかに強く持っていたかということなのである。寿命が延びることによる社会の変化は、典型的には高齢社会の助長という点で最も議論されているであろう。

 

 要するに、寿命が延びれば人口が増えて、高齢者も増える、という話である。もっとも、こうした主張の多くは既存の制度や慣習を前提としているふしがある。つまり、現行の制度や社会通念のままで高齢者の数だけが増えるとみているということである。しかし、当然ながら「社会」においてはすべてはつながっているのであり、何もかもがそのままで一部分だけ数が増えるということはあり得ない。

 そこでは、まず「高齢者とは何か」という問題があるであろう。これについての実感は人によって異なると思われるが、もっともこれについては社会通念の方も次第に変化してゆくであろう。何となれば、現在でもすでに「60歳から老人」とはとても言えなくなっているからである。いずれにしても、「寿命が延びる」の問題にかかわらず、人の一生の「生き方」というものが、今後ますます多様化することはおそらく間違いない。

 そうなれば、現在のように曲がりなりにも「典型的な人の一生」というものを思い描いた上でなんとか保たれているもろもろの社会的な制度は、ほとんどが大幅な変革を迫られるであろう。それが具体的にどう変わるかは民意次第なので予想しがたいが、端的にいって国民が今後ますます「国家を利用しなくなる(できなくなる)」ことは間違いないであろう。国を利用するとは要するに、税金を払うかわりにもろもろの社会保障を受けるということである。

 

 もっとも、もっと根本的なことを言えば、ここには「ますます多様化する個人をどこまで一つにまとめられるのか」、つまり「国家は多様性をどこまで担保できるのか」という問題がある。そもそも現行の日本国をみても、中央集権型の政治を行っている民主主義国としては、人口があまりにも多すぎるからである。中央集権・民主主義の次点はフランスだが、それでも約6600万人と日本の半分ほどである(中国やインドで民主主義が可能かというのは、「民主主義はどのサイズまで可能なのか」という問題なのである)。

 したがって、根本的に言えば日本でも地域によって制度が異なる「連邦制」の導入がもっと議論されてもいいはずなのだが、「自治」の発想なく中央集権的な政治体制に慣れ親しんできた日本では、すぐには実現しないであろう。したがって個人レベルでは少なくとも、国家に頼らないで生きたいように生きられるように備えておく必要がある。「社会がどう変わるか」とまず社会ありきで考えるのではなく、あらゆる可能性をふまえて、「どうなろうが、自分はどうするか」を考えている必要があるということである。「寿命が延びたらどうなるか」というのは、そうした大きな問題の一部としてある。

 

 さて、もっぱら社会的な話になってしまったが、本当は科学的な側面から寿命について書きたかったので、その点は次回にまわすことにしよう。

 

平均寿命105歳の世界がやってくる―喜ぶべきか、憂うべきか

平均寿命105歳の世界がやってくる―喜ぶべきか、憂うべきか

 

 

nekonaga.hatenablog.com

nekonaga.hatenablog.com


© 2015 ネコナガ (id:nekonaga)
Amazon.co.jpアソシエイト