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フリー哲学者ネコナガのブログ

人間にまつわること、哲学や科学、宗教、社会の問題、生き方のことなど書いています。基本的にエッセイです。

「フェミニズム」とはいったい何なのか─思想・制度・実践

 「フェムニズム(feminism)」という言葉がある。しょっちゅう耳にするわけでもないが、ごくたまにしか耳にしない言葉でもない。むしろ、ますます浸透してきている言葉だと言えよう。しかし、これはいったい何を指しているのか。ひと言で説明できるものであろうか。気になり始めるとどうも頭を離れなかったので、少し考えてみた。

 

 まず、語源的には言うまでもなく「feminine+ism」であり、そのままでは「女性主義」である。もっともこれでは何のことかわからない。そこで語源学辞典をみると、フランス語の「féminisme」に端を発するものだが(1837)、ひとまず現代的な意味といえる「”advocacy of women's rights”(女性の権利の擁護・提唱)」というニュアンスでの使用例は1895年からだという。

 つまり、はじまりは「フェミニズム」という言葉が浸透する以前(フランス革命以降の自由の追求の歴史)にあるが、ともかく現代的な意味での「フェミニズム」という「言葉」の歴史は、ここ百年ほどであるということだ。ちなみに、のちに「性差別」に加えて「人種差別」や「階級差別」も合わせて扱うようになって「ウーマニズム」という言葉も造られたりしたが(1983)、ここでは「フェミニズム」に問題を絞ろう。

 

 言葉の意味がわかったところで、実体がなんなのかといえばこれは「運動」であろう。つまり「女性の権利の擁護・提唱」を主たる思想とする(またはそうみなされる)運動の「総称」である。事実、「フェミニズム」という言葉は、言説から直接的行動までかなり幅広いものを指して使われている。ただし、通俗的説明には誤りもあるということを最初に指摘しておこう。

 たとえば、「女性の人権」を主張・担保・拡張等々という言い方があるが、これは単純に誤りである。なぜなら、論理的に言って「女性の人権」というものは存在しないからである。「人権」というのは「人であれば誰もが主張できる権利」を指すものだ。そこに「女性の」であれ何であれ、限定的な「○○の」という言葉が入ってしまえば、それはもはや一部の人々の「特権」であって、「人権」ではない。

 一般に言説の世界では、最初にこのように言葉の定義をしっかり行う必要がある。この言葉は法務省も使っているほどであるが(女性の人権ホットライン)、日常的にはまかり通っても、このような些細な違いが論理構造としては重大な欠陥となりうる。ということで、ともかく「女性の権利」という言葉と「女性の人権」という言葉をしっかり区別することが重要だということをまず確認しておこう。

 

 もっとも、「女性の権利」という言い方にも議論の余地がないわけではない。現代社会では、先進国なら基本的にどこでも、少なくとも建前上は男女は同権だからである。日本国憲法には「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」(第十四条)とある。つまり「憲法=国民の意思」としては、「権利」に男女の違いがあってはならないとしている。

  あるいは日本では、民法の解釈規定(その法律を解釈するにあたってとくに念頭に置かねばならないことを明確にするべく「総則」におかれるもの)にも、「この法律は個人の尊厳と両性の本質的平等を旨として、解釈しなければならない。」(第二条)と明記されている。その意味では、「女性の権利」や「男性の権利」という言い方も基本的にはおかしいであろう。生物学的な男女の区別があることは事実としても、社会的には「人」として等しく扱われると明記しているからである。

 

 ここからわかることは、大前提として「フェミニズム」は、(限定的に女性にかかわることだけではなく)より一般的な「人権」というものを全面的に主張する思想、「人権」を何にも増して尊重すべきという思想(たとえばヒューマニズム)の「一部」としてあるということである。その意味では、「フェミニズム」というのは固有の思想ではなく、「人権」を志向する思想・運動の一部分だけを別の名前で呼んでいることになるだろう。

 ただし、このように最も広い意味では(国民の意思を表明するものとしての「憲法」の上では)「人権」が担保されているのに、実際は「人権」の一部がないがしろにされているとしたら、それは実際上の問題ということになる。前置きが長くなったが、多くの「フェミニスト」の基本的な姿勢はこれであろう。つまり、建前上は「男女同権」であるのに、実際上はそれが成り立っていない、ということである。

 

 そこで、「フェミニズム」を問題のとらえ方から大きく二つに分けてみる。一つは、「構造上(諸制度上)は男女同権でも、実際問題として同じようには扱われていない」とするものである。これは、明文化されていない「社会通念」に多くの人が縛られている結果、「制度上は可能なのに歓迎されない」あるいは「女性の実践が足りない」とするもので、「意志があれば現状は自分で変えられる」といった形で女性を鼓舞する活動もある(たとえばフェイスブックCOOのシェリル・サンドバーグ氏)。

 もう一つは、憲法や法律において大枠での男女同権は明記されていても、膨大な法律体系の細部や、あるいはもっと局所的な諸制度上での扱いには違いがある、もしくは法律以前、法律の前提である「社会規範」に問題があるとするものである。たとえば結婚可能な年齢には、日本の民法でも男女で違いがある。「社会規範」ともなるとそれこそすぐには変化しないが、地道に社会的な「はたらきかけ」を行っていくことで、法律改正に向けて実際に民意を動かすことが求められる。

 以上二つに分けたが、両者はもちろん排他的なものではなく、ほとんどすべての「フェミニズム」は両方の意識を持っている上で、どちらかを重視していると言えるだろう。そして、ここには「制度が変われば現実も変わる」という考えと「制度とは別に先に実践が必要である」という考えがあることがわかる。これはあらゆる問題に通底する図式だが、実践が意味を持つためにはどちらの前提に基づいているのかを自覚しておく必要があるだろう。諸制度は、時には条件であり、時には結果なのである。

 

 さて、素人が考えを進めても議論が錯綜しそうなので、次に大越愛子『フェミニズム入門』を参照して、「フェミニズム」の大まかな歴史を確認してみることにする(ちなみに本書は最初の一冊としてはおすすめしない)。本書では、冒頭で便宜的に「フェミニズム」の基本的な思考スタイルを第一期から第三期までの三つに分けている。ここでも便宜上それを紹介しておこう。

 まず、「第一期」は「自前の思想をもたないで、男性から学んだ思想を理論的武器として、女性の解放を模索した時期」である。理論として具体的にはロックやミルの自由主義思想、マルクスやエンゲルスの社会主義思想を指すとされるが、しかし、これを実践し始めると、むしろますます女性が抑圧されることが実感され始めたという。つまり実践の濃淡ではなく、「理論」そのものが男性中心的だったということになる。

 そこで、ボーヴォワールの『第二の性』に代表されるような、「男性理論の呪縛に封じ込められないような、女性の生身の体験」が重視される「第二期」が到来する。ここでは、「男性原理を打倒しうるような、女性中心の内的な力が夢想された」という。それゆえに「女性の特徴」を大々的に取り上げる形で、「男性」への「対抗原理」が求められることになる。

 こうした段階を経て、「完全に自前の思想を持ち始めた」のが「第三期」であるという。性差別が他の諸差別と不可分であるという発想は第二期にすでにみられたが、第三期においては、「性差別および他の諸差別を内包して成立している男性中心文化体制の全体構造」そのものを問題化しはじめたという。つまり、「男性」でも「女性」でもなく「人類」のレベルで考えるべきだということだ。

 

 ひとまずこれが、前掲書による三つの時期である。あるいはこれを「三段階」と呼ぶことも可能だろう。もっともこれらは、「時期」とは言うものの常に重層的・複合的である。大まかな議論の歴史としては有効であるようだが、どの時期にも複数の思想があり、また新たな視点が出てきたからといって突然すべてが切り替わるわけではない。以下、私の観点からそれぞれの区分を捉えなおしてみたい。

 まず「第一期」は問題提起の時期である。大きなビジョンはないものの、性別において何らかの社会的違いがあることが自覚され始め、主張・運動が起こり始める。ここでのポイントは、「抑圧されている」との実感のもとで次第に「男性」と「女性」を明確に意識して、それらを分けて考え始めたということであろう(ここでは、両性をはっきり区別することが実は「フェミニズム」の立場からも「前提」であったことがわかる)。

 次に、断片的な問題意識に終始せず、全体像とビジョンを見据え始めたのが「第二期」といえる。ここでは現状が「男性中心である」という考えを徹底するあまり、新たに「女性中心」を提起するという形で言わば「批判対象者と同じ誤り」を生じ始めているといえる。これがおそらく先に述べた「女性の人権」に類する構造の典型であり、時に敬遠されるような場合の「フェミニズム」のイメージであろう。

 ところが「第三期」において、そもそも「男性中心」や「女性中心」という次元ではなく、問題は「人間社会」や「人類」といった一つ上のレベルで議論されるべきだという認識が共有され始める。ここにきて「フェミニズム」は、「反差別」や「人権」を前面に押し出す思想潮流の「一部」に組み入れられる(または回帰する)ことになる。それだからこそ、「フェミニズムは男性をも解放する」ということになる。それは「人類」が共通して抱えている問題に取り組むことなのである。

 

 さて、こうしてみれば、上に挙げたようなフェミニズムの理論はやはり「結果」であって、先に意志、そして実行の連続があることがフェミニズムの本義であることがわかる。だから現状を理論で捉えることはできないであろう。あるいは先にあげたように「人権」というもっと広い理念を追究するような、もろもろの活動の「一部」として「フェミニズム」も発生するのであれば、「フェミニズム」という特殊なものとして規定すること自体が、理論的にはすでに「古い」発想となる。

 そうしてみれば、他称フェミニストが自称フェミニストではない理由もすんなりわかる。もはや今では、ある運動が「フェミニズム」と呼ばれること自体が偏見なのであって、理論上「フェミニズムというものはない」というのが、人類が共有すべきスタンスだからである。つまり、ある意味で「フェミニズム」は名前と中身がもはや合致していないのであって、そうした言葉を使い続けること自体が、実は問題を複雑にしているのかもしれないだろう。

 もちろん、時にはもろもろの活動の中には、暫定的に女性に有利な形の制度的枠組みを設けるということもオプションとしては出てくるであろう。いわゆる「アファーマティブ・アクション」(積極的差別是正措置)の流れである。ただし、それが「目的」ではなく「手段」にすぎないというのが、理論でいえば第二期と第三期を分かつものである。そうした時にも「フェミニズム」という枠組みにとらわれず、いちいち「人類」の視点で議論することが求められるといえる。

 

 つまるところ、われわれが今考えなければならないことは、「フェミニズム」という言葉・概念が生み出された土壌そのものをしりぞけることであって、性別であれなんであれ、人類を絶対的に「分かつ」ような個別の枠組みそのものを超えて、「人類としてどのような社会を今後つくっていきたいのか」ということであろう。われわれはそろそろ、「フェミニズム」という言葉の呪縛からも抜け出さなければならないのである。 

 

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