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フリー哲学者ネコナガのブログ

人間にまつわること、哲学や科学、宗教、社会の問題、生き方のことなど書いています。基本的にエッセイです。

『悩ましい翻訳語』『厄介な翻訳語』垂水雄二─「翻訳」はなぜ難しいのか

書評と本の紹介

 垂水雄二『悩ましい翻訳語―科学用語の由来と誤訳』『厄介な翻訳語―科学用語の迷宮をさまよう』 を読む。著者の垂水氏はさまざまな職種を経験してきたそうだが、本シリーズは「翻訳者」として書いたものである。長年の翻訳業のあいだに積もらせてきた、もろもろの「翻訳語への思い」をエッセイ形式でつづっている。ちなみに垂水氏の翻訳における専門は生物学やいわゆるサイエンス読み物である。

 

 「翻訳語への思い」とは言っても、もちろんロマンあふれるものではない。あくまでも「翻訳者」に求められる「正確さの追究」の地道さ、そしてそれを知らない安易な批判者に対するものである。本書を読めば、翻訳というのがいかに骨の折れる作業かがわかる。書物の翻訳といえば、大きく分けて「文学」と「学術」に分かれるであろうが、後者の方はとくに膨大な知識と論理力が必要である。

 「文学」ならば、原文とは別に日本語での文学的センスが問われる。こちらの場合はほとんど別の作品をつくる作業だと言ってもよいくらいであろう。言語構造が違えば、もとのニュアンスなどはどうしても再現できないし、時代が変わればすぐに「適切な訳語」が変わってしまう。そのかわり文学作品ならば、詳細な言葉の「意味」が少々違っていてもとやかく言われることは少ない。雰囲気重視である。

 

 一方で「科学」の分野になると、これはむしろ厳密さのみが徹底的に求められる。科学用語とはそもそも普遍的に定義されるものだが(たとえばH2OはどこへいってもH2Oで指しているものがブレることはない)、翻訳は言葉の単位で行うものではないし、ましてや本レベルでの主張、章レベルでの主張、センテンスレベルでの主張をバランスよく「ねじまげずに」訳すには、相当の骨折りが必要となる。

 科学モノにおいてはしたがって、「日本語として読めない」とまで言われるとアウトかもしれないが、「自然な日本語ではない」は当たり前である。言語の構造が違えば、文章がぎこちないのはしょうがない。大事なのは意味内容をくずさないことなのである。垂水氏の翻訳における師は日高敏隆氏であるそうだが、日高氏は、科学モノの翻訳では「論理展開をくずさない」ことを第一にふまえる必要があると言ったらしい。

 学術的な文章なら、「論理」が崩れればすべてが台無しになってしまうから、考えてみればこれは当然の話である。しかし、翻訳者は語や文章の意味の正確さにも一方で神経を張りつめていなければならないから、本書の表現で言えば、翻訳作業は「木を見て森を見ず」となってしまいがちなのである。これは少しでも「翻訳」という作業をやってみればわかることであろう。

 

 本書はエッセイ形式だが、節ごとに、散見される「誤訳」や起こり得る「誤訳」がひとつとりあげられ、それをもとに話が展開される。読んでいると知識が深まるだけでなく、「翻訳とは何か」ということが外からでも少しはわかる。あるいは著者の文章を通して、「科学的」ということの意味も明快にみえてくるであろう。ひと言でいえば垂水氏は徹底的に「まともな人」であり、本書を読めば、著者の手がける翻訳書への信頼性が素直に高まる。

 さて、本書からいくつかの「誤訳」例を抜き出してみよう。著者によれば、多くの「誤訳」は、もっとも基本的である「きちんと辞書を引く」という作業を怠ったことにより生じているという。もちろん、ここで「辞書」というのは語学辞書のみならず、専門知識を確認するべく、必要に応じて当該分野の事典類や専門書にもあたらねばならない。誤訳、元の言葉、垂水氏による妥当な訳、の順で並べるので、自分の「翻訳力」をチェックしてみてもいいかもしれない。

 

  • アフリカ野性犬(African wild dog)=リカオン(野生ではない)
  • イナゴ(locust)=バッタ類(聖書ではイナゴと訳された)
  • 谷間の百合(lily of the valley)=スズラン(ユリではない)
  • 動物王国(animal kingdom)=動物界(分類学用語)
  • 白鳥の歌(swan song)=芸術家の遺作(慣用表現)
  • 彼には背骨がある(he has a backbone)=度胸がある(背骨は当然ある)
  • 野菜状態(vegetative state)=植物状態(脳幹だけが生きている状態)

 

 あるいは植物や動物の話ともなると、生物学とは別に、分類学の膨大な知識が必要とされる。知識とは言ってもこんなものはとても覚えきれるものではないから、いちいち調べることになる。しかし、調べればすぐにわかるかというと、そういうわけでもない。言葉の意味はつねに文脈次第であり、あるいは両言語の文化的な知識を十分に蓄えておかないと、訳語は確定しないからである。

 生物の名前ということになれば、「学名」とはそもそも普遍性を志向するものであるはずだが、広く一般向けに出版する本でむやみにラテン語を使うわけにもいかない。そこで日常的な呼び名となると、言語や文化的背景ごとに、あるいは同じ言語でも地域や業界ごとに異なる「訳語」を確定させねばならないのである。生物分類は大きい方から順に「界・門・綱・目・科・属・種」だが、そもそもこの中で自然界に根拠があるのが「種」しかない。

 これについて本書では「Carnivora」の例があるが、これはもともと「食肉目」と訳されていたもので(「Carnivora」は「カーニバル(謝肉祭)」や「カニバリズム(人肉嗜食)」に通ずる)、これなら素直な訳である。しかし、こうしたところには別の問題も出てくる。著者によれば、何も知らない文部省(当時)が「わかりやすい名称にする」という名目のもと、これに変えてなんと「ネコ目」にしろと言い始めたらしい。「目」は生物分類においてはかなり大きな括りである。

 そこで「食肉目」に何が含まれているかと言えば、イヌ科、クマ科、アライグマ科、イタチ科、ネコ科、ハイエナ科、マングース科、ジャコウネコ科、それに場合によってはアシカ科とアザラシ科である。これだけ多様な動物を「ネコ目」と一括しろというわけだ。ライオンがネコ目と言われたらまだわかるが、ジャイアントパンダ(クマ科)が「ネコ目」と言われてもちんぷんかんぷんであろう。訳語の問題にはこのように、第三者の意図、時には政治的意図まで入り込んでくる。

 

 翻訳などやったことがない人は(一応、こんなことを言う以上は言っておかねばならないが、私もちょっとした翻訳仕事の経験ならないわけではない)、「語学力さえあれば」と素直に考えてしまいがちだが、翻訳というのは、読んだり聞いたり話したり書いたりするのとはまったく別のスキルを要する。つまり一種の「職人技」なのである。一般に翻訳は「語学力」を大前提として「日本語力」と「専門知識」が必要とされるが、本書を読んだ感想としては、翻訳者に最も必要なのは、おそらく「根気」であろう。

 

悩ましい翻訳語―科学用語の由来と誤訳

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厄介な翻訳語―科学用語の迷宮をさまよう

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