フリー哲学者ネコナガのブログ

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お経を読んでみよう(第十四回)知恵の完成は完成したものではない

 今回は『金剛般若経』と『善勇猛般若経』をとりあげよう。どちらも数ある「般若経」の一つである。引用については長尾・戸崎訳『大乗仏典〈1〉般若部経典―金剛般若経・善勇猛般若経』から行う。

 大般若経の蘊奥を短くまとめたとされる『般若心経』についてはすでにとりあげたが(「お経を読んでみよう(第四回)すべては「空」である」)、『金剛般若経』は比較的早くに成立したもので、新鮮な「空」の思想を短く表現している。一方で『善勇猛般若経』の方は比較的後代に成立したもので、もう少し分量がある。一連の般若経典には、当初はどんどん分量が膨らんで、のちに縮小版が出始めた歴史がある。

 

 さて、最初に『金剛般若経』の方をとりあげよう。これは、他の般若経典と同じく、大乗仏教の根本教理である「空」を説いたお経だ。形式としては、釈迦が十大弟子の一人であるスブーティに教えを説くものとなっている。散文であるが、参照文献ではアサンガの『詩頌による注釈』も同時に訳されているので、一章ごとに本文とアサンガによる注釈が並ぶ形となっている。

 「空」については龍樹のところでも説明したが(「お経を読んでみよう(第十三回)ニルヴァーナは輪廻に対していかなる区別もない」)、一言でいえば「ある」と「ない」を包摂する概念である。一応比較してみると、西洋の形式論理では、「ある」と「ない」はどちらかひとつであり、両方あれば「矛盾」となる。しかし、仏教ではそれを超えた視点があるとみるのである。何となれば、この世の森羅万象はすべてあると同時にないと考える。

 それゆえに、本書もいわゆる「論理的」なものではない。これはほかの諸経についてもいえることであるが、あくまでも体感を重視する仏教では、教えを言葉で書けるとは考えない。ただ相手に合わせて状況に合わせて、さまざまな「示しかた」があるだけである。ちなみに『金剛般若経』は、徹底して「空」を説いているにもかかわらず、「空」という言葉は一度も出てこない。

 

 「それゆえに、『あらゆるもの(法)は、仏陀の本質(法)である』と、如来は説くのである。なぜならば、スブーティよ、あらゆるもの(法)というのは、法ではないと、如来は説いた。だから、『あらゆる法は、仏陀の法である』といわれるのである」(p.51)

 

 本文は、このような調子である。したがって、いわゆる形式論理学的な意味で「論理的」に考えていると、『金剛般若経』は理解できないのだ。「Aであり、Aでない」という言い回しが頻出するのがこのお経の特徴である。漢訳では「A即非A」となるが、これはのちに鈴木大拙によって「即非の論理」としてまとめられた。こうして「空」のことわりがさまざまな側面から語られるのである。

 

 一方で、表面上のテーマとしては、釈迦の言行と大乗仏教的な「空」の論理を理論的に整合させるため、いくつかの問いがあげられている。それらは一面で仏教の「倫理観」をあらわしているとも言えよう。たとえば、「執着を離れるとはいえ、釈迦は法を悟ったではないか」とか、「執着を離れた利他行がどのように可能か」とかいったものである。

 仏教の修行の目的は、あらゆる執着(しゅうじゃく、と読む)を離れること、つまり何ものにもとらわれず、自己というフィルターを通さずに宇宙そのものを観ることであった。しかし、それならば「法」があるというのは腑に落ちないし、また釈迦が立ち上がって教えを説き始めたような「利他行」はおかしなことではないかというわけだ。

 前者の問いについては、よく出てくる「筏の喩え」が参照されている。つまり、川を渡るために筏を用いても、向こう岸についたら筏はすでに不要だから捨てられるように、「法」もあくまでも涅槃に入るための道具であり、彼岸に達したらもはや不要、ただし説明論理として、これから彼岸を目指す人には必要ということだ。あるいは悟った人には何事も「空」であり、あるのでありないのであるのだ。

 

 続いて後者の「利他行」にかんする問いについては、大乗仏教の根本姿勢そのものとも直接的な関係にある重要な問いだ。ひとつ引用してみよう。

 

 「さらにまた、スブーティよ、菩薩は事物に執着しながら布施をすべきではない。何かに執着しながら布施をすべきではない。──つまり、色形に執着して布施をしてはならないし、声や香りや味や触れられるものや心の対象(法)に執着して布施をすべきではない」(p.14)

 

 ここでは、以前に「梵天勧請」のところ(「お経を読んでみよう(第九回)彼らに甘露の門はひらかれたり」)で少し書いた「慈悲」の精神、つまり仏教的な利他の実践について説かれている。西洋キリスト教的な「愛」の精神とは違って、「慈悲」は何の目的意識もなく、悟った人からいわば「自動的」「結果的」にあらわれてくるものなのである。この部分についてアサンガは次のように注釈している。

 

 「(執着なき実践とは)自分自身に対しても、返礼されることについても、また(善の行為の)結果に関しても、執着のないことである。それは、(自分への執着から、布施を)行わなかったり、(返礼を期待し、あるいは布施の結果に執着して、さとりへの道とは)別の目的を持って(布施を)行ったりする──この両者が遮止されていることである」(p.15)

 

 執着、つまり意志や意識、価値判断がないとしながらも「利他行」を行えるのは、まさしく「執着がありつつ、執着がない」、つまり、執着が「空」だからである。仏教での「利他行」は悟りの境地からいわば「勝手に発生してしまう」ものであり、極端なことを言えば、「誰かのためになろう」とか「社会のためになろう」とすら思ってはいけないのである。

 現代的に言えば、徹底的に自己を磨き続けている人にしか、本当の意味での他人のための行いは(原理的に)できない、ということであろう。これは「悟り」の論理と「空」の論理を整合すれば、必然的にそうならざるをえない。したがって、徹底して修行することが結果的には他人のためにもなるということで、このあたりは大乗仏教といえどもまだ初期の個人主義的な論理が残っているとみえる。

 

 さて、次に『善勇猛般若経』に進みたいが、このお経は般若経の中でも比較的後代に作られたものであり、それゆえにいわば般若経の説く「空」の論理が、徹底的に展開されたひとつの形をみることができる。分量は『金剛般若経』よりも多くなるが、それでいて(西洋論理学からは)「非論理的」なものであり、同じような言い回しの繰り返しも多く、ひたすらにありとあらゆるすべてのものが「空」であることを説いている。

 したがってこのお経については、「曲がりなりにも要約」することも、はっきり言ってできたものではない。しかし、その「せまってくるもの」を少しでも体験していただきたいので、少しだけ抜き出しておこう。

 

 「知恵の完成は完成したものではない。なぜなら、物に完成がないから。同様に、感覚や観念や意思形成や認識に完成がないから、知恵の完成も完成したものではない。また、迷い(無明)に完成がないから、知恵の完成も完成したものではない。同様に、生成のはたらき(行)に完成がないから、知恵の完成も完成したものではない。また、識知(識)に完成がないから、知恵の完成も完成したものではない。また、固体的存在(明色)に完成がないから、六つの知覚の場(六処)に完成がないから、経験(触)に完成がないから、感受(受)に完成がないから、欲望(愛)に完成がないから、執着(取)に完成がないから、生存(有)に完成がないから、誕生(生)に完成がないから、老病死、苦悩、悲嘆、苦、憂悩、惑乱に完成がないから、知恵の完成も完成したものではない。また要素(界)や知覚の場(処)や無常、苦、無我、静寂、転倒、(さとりへの)障害、誤った考え、(愛欲による心の)動き、減少や増加に完成がないから、知恵の完成も完成したものではない。また、生じ、滅し、とどまり、変移することに完成がないから、知恵の完成も完成したものではない。出現したり、没したりすることや、自我、衆生、命あるもの、養育者、個人格、個我、人間、若者、行為するものや行為させるもの、起動させるものやひき起こすもの、感知するものや感知させるもの、知るものや知らせるもののいずれにも完成がないから、知恵の完成も完成したものではない。また、真理(諦)、虚偽、因果関係のあるもの(有為)や因果関係を超えたもの(無為)、去ることやくること、見えるもの(有見)や見えないもの(無見)、内や外のいずれにも完成がないから、知恵の完成も完成したものではない。また、地界、水界、火界…」(p.160-1)

 

 終始このように、ひとつのことについて「空」を説きつつ、あらゆるものが「空」であることを説いている。ここだけでもわかるかもしれないが、このお経については、次から次へと読んでいるだけで、非言語で何か「せまってくる」ものがあるのである。したがってお経をただ「読む」ということであれば、あるいは大乗仏教の世界を少しでも体感したければ、最初に読むお経として私はこれをすすめる。

 

 現代日本人は平均的に活字臨場感もずいぶん高いので、おそらくお経を「読む」というのはもっとも実践しやすい修行のひとつであろう。それも論理を追いながら読んでもいいし、あるいはこの『善勇猛般若経』のように次から次へと進んで「空」を体感しながら読んでもいいし、あるいは意味もわからず読んでもそれはそれでいいであろう(これはのちの浄土教的な救済観に通ずるものである)。

 仏教では、悟りに到る方法は一つではないし、救済のための方法も一つではない。それはとくに大乗仏教の基本的な考え方である。したがってさまざまな触れ方が可能だが、あるいはやはり、「原典を読む」というのはこと仏教に関しては重要であろう。在家仏教者にとっては、こうしてマニアックなお経がふつうに刊行されているのはありがたいところである。

 

大乗仏典〈1〉般若部経典―金剛般若経・善勇猛般若経 (中公文庫)

大乗仏典〈1〉般若部経典―金剛般若経・善勇猛般若経 (中公文庫)

 

  この中公文庫の『大乗仏典』シリーズも、もともとはハードカバーで刊行されていたものだが、文庫で読めるのはここだけというお経も数多くある。どれかひとつでも実際に全文を読んで、仏教の豊かな世界に触れてみていただきたい。


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