フリー哲学者ネコナガのブログ

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『人類学の再構築』モーリス・ゴドリエ─人類学とは何か

 モーリス・ゴドリエ『人類学の再構築―人間社会とはなにか―』を読む。ゴドリエは、レヴィ=ストロースにも師事したマルクス主義人類学者である。邦訳文献としては『観念と物質―思考・経済・社会』や『贈与の謎』などがある。

 

 「人類学」というのは、謎の学問だ。英語では「anthropology」だが、原義は「人間の研究」である。一般に「人類学」と言えば「文化人類学」を指すことが多いが、「自然人類学」というのもあり、こちらは生物学に近く、動物としての人類の特徴を探る。あるいは「文化人類学」というのはアメリカや日本での言い方で、伝統的にイギリスでは「社会人類学」、フランスやドイツでは「民族学」というのがだいたい同じ領域である。

 「人類」と言っているのだから、「社会科学」が何でも含まれると言えばそうで、多くは方法論から特徴が語られる。なかでも最大の特徴は、フィールドワークを重視することであろう。つまり、現地の言語を習得して、研究対象の社会に自ら入り込む。そして、基本的に数年間、実際にその社会の成員として「ふつうに暮らしつつ」、研究を行うのである。もちろん、そこでの「受け入れられかた」もさまざまである。

 もっとも、「フィールドワークを重視する」というのも、だいたいマリノフスキー以降でのことで、それ以前の研究者の多くは、他人がとってきた記録をもとに研究していた。したがって「arm chair anthropologist(安楽椅子の人類学者)」という不名誉な名称で呼ばれることもある。ともかく、現代的な意味での「人類学」の歴史はここ百年くらいしかない。しかし、人類学には長い過去があるのである。

 

 そもそも、西洋において「他者」との出会いが顕著になってきたのは、大航海時代以降でのことである。このころから、「ここではないどこか」についての関心が爆発的に高まる。最初は船乗りや宣教師、商人などによる記録が手がかりである。もっとも、「大航海」の結果が多くの場合に侵略や略奪であったのはご存じの通りで、次第に「植民地化」が大々的に成立してくると、話が少々ちがってくる。

 要するに、人類学者は純粋に自分の興味から研究を行いたい。一方で為政者は、現地での統治をうまくやるために情報が欲しい。したがってここに「win-win」の関係が成立する。つまりは為政者が金を出し、人類学者はやりたい研究ができて、結果的に為政者は必要な情報を得られるということである。人類学が「学問」として非常に微妙な位置付けなのは、このように「政治の一部」として利用されてきたからでもある。

 

 では、現代において「人類学」とは何か。ようやく本題の『人類学の再構築』に入るが、ゴドリエの関心は、「雑多な情報の寄せ集め」としての「人類学」ではなく、ひとつの学問としての人類学をきちんと体系化することにある。「人類学は個別の社会に関する個別の研究を寄せ集めているだけで、誰も人類の研究などしていない」とはよく言われることだが、要するにこれまでの人類学では「一般化」の側面が弱かった。

 そこで、人類学とは「何であるのか」「何ができるか」「何をすべきか」ということをはっきりさせようと試みたのが本書である。ゴドリエは本書において、これまでの人類学における代表的な「結論」についての問いなおしを行っている。下にそれらを挙げてみるが、いずれも人類学を学んだことがある人ならきいたことがあるであろうし、言わば固定観念となってしまっているものである。

 

  • 社会は、交換(人間の交換と材の交換)の上に基礎づけられている。
  • 親族と家族の関係は、(とくに「国家」成立以前は)どこでも社会の基礎である。
  • 子どもは、一人の男と一人の女の性交渉によってできる。
  • 経済的諸関係が、社会の物理的・社会的基礎を構成している。
  • 象徴的なものは、つねに想像的なものと現実的なものの上位にある。

 

 もっとも、ゴドリエは単に批判を行いたいのではない。タイトルにあるように、念頭にあるのはあくまでも「再構築」である。つまり、これまでの「人類学」を解体しつつ、現代において一個の学問として通用するような、新たな人類学を構想する。何であれ、体系化を行うには「前提」が必要である。もろもろの前提から、もろもろの結論を導く。それが論理的ということである。前提が間違っていれば、結論は歪んでゆくばかりである。

 たとえば、一つ目の「社会は、交換の上に基礎づけられている」というのは、人間も含めた広い意味での「モノ」の扱い方の話であるが、「交換するもの」だけが人類にとっての「モノ」であるという前提に立つと、そうではない「モノ」があった瞬間に、研究がどんどん「現実をみていない」ものになってしまう。実際、交換され得ない「モノ」を持たない社会の方がおそらく存在しないであろう。

 

 ここからもわかるが、ゴドリエが念頭に置いている新たな人類学では、「認識はすべて、特定の人々からみての話である」ということが大前提となっている。要するに、人類は「自然」や「客観的世界」の中に生きているのではなく、「社会」つまり「主観的世界」の中に生きているということである。決して、認識されるものと認識するものが別々にあるのではない。

 ゴドリエが強調しているのは、人類は「社会の中に生きている」と同時に、「社会を作り出している」ということである。われわれは、日々のすべての行為行動によって、自分が属していると考えている「社会」を作り出しているのである。こうした前提をふまえつつ、先にあげたような「人類学的真実」への批判的検討が行われる。そしてゴドリエの考察に基づく結論はたとえば次の通りである。

 

  • 人が売ったり与えたりするモノの横には、継承するためにとっておくモノが存在する。これらはアイデンティティの支えとなる。
  • 親族に基礎をおく社会は存在しないし、これまで存在しなかった。親族集団が社会を築く絆を構成することはないし、家族についてはなおさらである。
  • ひとりの男とひとりの女でつくるのは胎児であり、祖先や神々や創造主が魂を与えることで、胎児は人間の子どもになる。
  • 人間のセクシャリティは基本的に非社会的である。性をもつ身体はどの社会でも一種の腹話術機械として機能しており、利害関係と力関係を表現し正当化している。
  • あらゆる社会関係は、どんなに物理的なものであれ想像的なものを含んでいる。それは社会関係の内在的構成要素である。
  • 人間諸集団と諸個人の総体をひとつの「社会」にする社会関係は、親族関係ではないし、経済関係でもない。それは、西洋人が「政治─宗教的」と形容する関係である。

 

 それぞれの議論の詳細については、膨大な実例に裏付けされた本書を実際にお読みいただきたいが、上の要約だけを読んでもおそらく、今ではすんなり納得される方は多いであろう。あるいは常識ですらある。しかし、こと「人類学」、「別の社会」の話ともなると、どうしても偏った見方をしてしまいがちである。結局のところわれわれは、旧来の「人類学」という枠にとらわれてしまうことによって、むしろ人類学できなくなっていたのである。

 

 旧来の人類学でも、「相対主義」は早くからあった。つまり、文化や社会に優劣はなく、それぞれの社会はそれ自体がユニークなものである。これは当初の人類学にあった文化進化論的な見方を否定すればふつうに出てくるものである。そこで機能主義や構造主義が主流となるが、そこではあくまでも、個別の社会を研究しているだけで「人類学」というのは名前だけだ、という批判をかわすことはできなかった。

 これに対してゴドリエは、人類学者と言えどもはじめは「自分の属する社会」を徹底的に相対化する必要があることに留意しつつ、地球上の誰からみても同じく議論できるような、抽象化された視点としての「人類学」を想定しているのである。そこで、一般理論への可能性が少なくともひらかれることになる。それを想定してこそようやく、特定の個別の研究をも「人類学」と呼ぶことができるのである。

 ゴドリエは序章において、人類学のみならず社会科学一般の役割について丁寧に問いなおしている。あるいは、一般に「本当に科学なのか」と言われがちな社会科学に対して、たとえば現代における領土問題やアイデンティティの問題、宗教対立等を分析・研究するには、自然科学ではまったく足りないことを力説している。彼自身の言葉では、社会科学の役割は次のようなものである。

 

 「社会諸科学によって私たちが理解するのは、人類がその歴史の過程のなかでみずからを再生産するためにつくり出してきたさまざまな形態の社会の本質と機能と、これらの社会生活の形態が前提にしたし前提にしている考え方と感じ方と行動の仕方を、分析し理解することを目的とする再帰的な思考の作業の諸形式である」(p.51)

 

 そこで「人類学」に固有の体系はどのように与えられるものかと言えば、それらは五つ問いから出発するものだとまとめることができるという。

 

  • 人間と祖先や精霊や神々との関係はどのようなものであるか、あるべきか
  • 権力の形式はどのようなもので、誰によって正当/不当と考えられているか
  • 生れること、生きること、死ぬこととはなにか
  • 富の形式、交換の形式、場合によっては貨幣の形式はどのようなものか
  • 周囲の自然をどのように考え、どのように働きかけているのか

 

 これらの問いに個別の立場からそれぞれ答えることで、各社会の「特徴」が浮き彫りになる。人類学者の役割は、この言わば一般理論に向けての仮説を検証することであり、また各社会におけるこれらの問いへの答えを収集することである。もちろん、記録や観察だけではどこまでも個別の視点を離れることはないため、そこでの「社会における答え」を抽象的に見つけ出すのが、ほかでもない人類学者だというわけである。

 そしてゴドリエは、現代においてこそ人類学が必要だということを強調している。ゴドリエは、世界が単一の「世界システム」に包摂され、世界レベルでの民主主義、資本主義が起こる方向に進んでいる、という支配的な想定には「何の根拠もない」と言い切っている。人類学を知れば明らかなように、人間のリアリティは政治だけで、あるいは経済だけで出上がっているのではないからだ。

 

 こうしてみれば、これまでおいやられていたような「人類学」というものが、突如として前面に出てくるから不思議である。ゴドリエの想定する「人類学」の視点は、人類学者のみならず、すべての人にとって必要な視点であろう。人類は社会に生きていると同時に、すべての人のすべての行いがその「社会」を作りだしているということを忘れてはならない。そうした意味でも、あらゆる人におすすめしたい一冊である。

 

人類学の再構築―人間社会とはなにか―

人類学の再構築―人間社会とはなにか―

 

 


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