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フリー哲学者ネコナガのブログ

人間にまつわること、哲学や科学、宗教、社会の問題、生き方のことなど書いています。基本的にエッセイです。

日本人の死生観と「死」について─儒教、仏教と民間信仰

 「死」については、古来さまざまな考えがある。何が死であるのかというのは、科学で結論が出るものではない。細胞がすべて死滅した時かと言えば、一度にすべて死ぬわけではないから、その判定は確固たるものではない。心臓が止まった時かと言えば、心臓は止まったと思ってもまた動き出すことがあるから、いつまで止まっていれば死かということになる。こういう基準はすべて社会的に定められるから、自然なものではない。

 だから場合によっては死んでいるかいないかが議論されることになる。しかし、そもそも人間のあいだでは「人が死ぬとはどういうことか」についての共通了解が成立しないのである。このあたりはいつまでもそうであろう。なぜなら、死んだ人は「この世に一人も」いないのであり、議論しているのは生きている人だけだからである。ここにヒントがありそうであるが、先に日本人の死生観からはじめることにしよう。

 

 お盆のはなしのところでも少し書いたが(「『お盆のはなし』蒲池勢至」)、日本人は古来、祖先を供養するマツリを持つ。その一つが盆であり、あとから仏教的な名前や道具が加わったのが、今の盆行事である(ここからわかるのは、ふつうわれわれは「入ってきてこうなった」という説明を受け入れがちであるが、実際は受ける方にもそれなりの土壌が必要だということである)。

 したがって道具や儀礼といった「あらわれ」よりも先に、そこには「死生観」がある。つまりは、墓や葬式があるから信仰が生まれるのではなく、あるいは宗教があるから信仰が生まれるのでもなく、信仰があるから特定の宗教なり儀式なりが根付くのである。ただ、目に見えてあらわれるのはやはり作法や道具の方であるから、探るにはそれをみる必要がある。

 

 そこで日本では葬式や仏壇のことを語れば話が早いであろう。もっとも、それなら日本人が持つのは仏教の死生観かといえば、そういうわけではない。こうしたものの多くが「儒教」に由来しているのは、それなりに知られていることである。本来の仏教には、死者を供養する発想はない。そこで加地伸行『沈黙の宗教――儒教』を読むと、そもそも日本人の死生観自体が、儒教的世界観に親和的であることがわかる。

 つまり、もともと日本人の「死生観」が儒教的な世界観に近いがゆえに、儒教的な作法や道具が根付いたといえるだろう。それははっきりとみることができる。たとえば、葬儀の際の祭壇の前で、あるいは仏壇の前で、われわれは死者や先祖のことを想っている。そこでは、あくまでも人がメインとなっているのである。本尊があるにもかかわらず、である。それなら仏教は形だけであろう。

 あるいは「位牌」についていえば、これは儒教の魂魄(こんぱく)思想に端を発するものである。やはり仏教とは関係がない。魂魄思想とは、「魂(こん)」と「魄(はく)」、つまり精神と肉体が、一体になっているのを「生」、分離しているのを「死」とみるものだが、したがって死後も「魂」はある。ただ、離れているだけである。そこで、時々還ってきて位牌に宿るのである。あるいは「魄」の象徴が「お骨」である。

 

 こうしてみれば、つまりは「死者が還ってくる」という発想自体が、日本人の死生観の特徴だとみることができるだろう。あるいは前掲書では、「仏教は生死を越えて仏になろうとする。道教は生死を一体化して、仙人になろうとする。儒教は生きてあるときに聖人に成ろうとし、死後は祖先祭祀によって生の世界に回帰する」とまとめているが、ここまでくれば、ふだん自明視しているわれわれの「死生観」も浮き彫りになるのではないか。

 もちろんそれを「儒教」と言い切るかは別の話だが、少なくとも、日本人の死生観が儒教的な世界観に親和的であることは間違いがない。儒教の世界観では、天と地はゆるやかにつながっており、また上は「天」で閉じているから、魂がどこかにいってしまうことはない。だから時々還ってくるのである。この世と接続のない「天国」や「地獄」へいくのであれば、そもそも還ってこられないし、あたりをうろついていることもない。

 ともかく、こうしてみれば、日本人の死生観はそれなりにみえてくる。そして、そうした「死生観」をもっているからこそ、われわれは、マツリをやって先祖を迎えたり、位牌を置いたり、お骨をとっておいたりしているのである。これらは何ら、普遍的なことではない。死生観も儀礼も道具も、古今東西さまざまあるのである。もちろん日本人の死生観やそのあらわれも、時代とともに変化している。

 

 それなら、「人間の死」にかかわるものについて、何か普遍的なものはないのか。そう思って最初に浮かぶのは「墓」であろう。これは「死者をまつる」というもっとも原初的な行為から、言わば必然的に出てくるものであるから、特定の宗教や思想以前のところに端を発すると考えられる。ネアンデルタール人だって埋葬は行ったのである。それなら、墓を比較すれば何かみえてくるか。

 「墓」といっても、現代日本のように専用の墓石をこしらえることもあれば、ひろってきた小石を置くこともあるし、土をかぶせるだけの場合もある。しかし、考えてみればそもそも墓を設けないこともあるから、これはやらなくてもいいことなのであろう。どこでも昔は野ざらしというのもあったし(これは衛生的にもたない)、インドでは今でも、火葬したら骨はガンジス川に流す(これは輪廻転生の思想に関係がある)。

 

 それなら墓というのは、極論すればアート(芸術)の一種なのであろう。何となれば、死にまつわるもろもろの儀礼はすべてそうではないか。そう言うと誤解もあるかもしれないが、アートとは、それ自体に意味・機能・役割といったものがあるかどうかにかかわらず、つまり目的意識を抜きにして、頭の中にあるものが「表現」されて出てきたもののことである。だから「結果として」いろいろな動きやモノがあらわれてしまう。

 丹波基二『お墓のはなし』では、古今東西の「墓」を比較しつつ、「いままで、この本を読まれた方は、お墓についての禁忌は、ひとつもないことにお気づきだろう。そこで自由に気に入った墓を造ればよいということになる」と言ってしまっている。つまり、お墓に普遍的なタブーがないということは、これは自由な表現なのである。何となれば、墓を作るか作らないかということも含めてそうであろう。

 

 そこで、お墓にしろ、さまざまな儀礼やモノにしろ、「死」にまつわるもろもろは、死者のためのものではなく、あるいは特定の宗教のためのものではなく、本来的には生きている人の頭の中を表現したものということになる。死者を供養するもろもろの物事が、本来的には「生きている人のためにある」というのはよく言われることであるが、つまりそれは感情の表現であり、目的があるかと問われたらきわめて微妙なのである。

 そもそも、生きている人の頭の中で「死」はどうなっているかといえば、これは誰も体験したことがないのだからすべては想像であろう。臨死体験を語る人や前世の記憶があるという人もいるが、それは生きているあいだの記憶からふつうの脳内情報処理で出てくるものである。生きている限り、「死」は他人のものでしかない。「死を体験する」ことは、実は誰にもできないのである。

 なぜなら、自分が死んだら、死んだ自分を認識する「自分」がいないからである。したがって「自分はいつか死ぬ」というのは誤りということになる。要するに、主観と客観がごっちゃになっているのである。認識はすべて主観的なものだが、「死んでいる自分」というのは、勝手に想像する「客観的世界」における話でしかない。しかし、死んだらそれを認識する自分がそもそもいないのである。

 

 さて、ここまでの話をまとめてみよう。

 

  • 日本人の多くは、時々還ってくる先祖の霊である「魂」の存在を想定している。ただし、そこに普遍性はない。
  • 墓や葬式は言ってみればアート(芸術)の一種である。生きている人の自由な表現である。
  • 「自分がいつか死ぬ」というのは厳密に言えば誤りである。主客の混同による妄想である。 

 

 こうしてみれば、つかみどころのなさそうな「死」やそれにまつわるいろいろが、実は構造的にとてもシンプルであることがわかる。あとはそこからどうするかという話であるが、それこそまったく個人の自由であろう。おそらくこれからは、死生観も葬儀のあり方も急速に変化する。しかし、難しく考える必要はなく、自由にやればよいのである。もちろん「自分の死」について悩む必要もない。何しろ、誰にも何もわからないのである。

 

沈黙の宗教――儒教 (ちくま学芸文庫)

沈黙の宗教――儒教 (ちくま学芸文庫)

 

 

お墓のはなし (河出文庫)

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