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フリー哲学者ネコナガのブログ

人間にまつわること、哲学や科学、宗教、社会の問題、生き方のことなど書いています。基本的にエッセイです。

お経を読んでみよう(第十三回)ニルヴァーナは輪廻に対していかなる区別もない

 今回はナーガールジュナの『中論』をとりあげよう。ナーガールジュナは「龍樹」と訳されているので、そちらの表記を採用する。引用は講談社学術文庫にある中村元訳『龍樹』から行う。

 

 『中論』は、一言でいえば大乗仏教の根本経典の一つであり、「空」の論理を体系的に論じたものだ。仏教経典は「三蔵」といって厳密には「経(「ニカーヤ」や「アーガマ」に属する狭義でのお経)」、「律(教団成立後に各派が戒律を表明したもの)」、「論(注釈や解釈、発展した思想を著したもの)」に分かれるが、『中論』は大乗仏教における「論」に位置するものである。

 これまでみたように、釈迦や釈迦に近い弟子たちの言行は、実践や対機説法を重視したことから、断片的、または統一性を欠く形でしか残っていない。そうした中で、龍樹は言わば釈迦の悟りの内容をはじめて「体系的に」論じた人物であり、その主著が『中論』だ。したがって龍樹は、釈迦を除けば仏教の世界でおそらくもっとも影響力を持っている人物である。大乗仏教では龍樹の影響下にないものはないと言われ、日本では「八宗の祖師」とも呼ばれている。

 

 龍樹については、古くからの評伝がいくつかあるが、幼いころから天才であったようだ。簡単にいえば、学ぶものを学びつくしてしまってやることがないので快楽の追究にもふけるも、それが苦の根源であると知って仏道に入り、仏典を読みつくした末にまたやることがなくなったので体系化を行ったようである。「知り尽くしたはずのあなたが、なぜ弟子という学ぶ側の立場にいるのですか」と問われたのが直接の契機だったようだ。また一方で仏教の普及、実践的な救済にも尽力している。

 ちなみに、龍樹という名前は珍しくなかったようで、あるいはその業績から伝説化されて語られてきた部分もあり、のちに一人の人物とされてきた龍樹が何人かの異なる龍樹であることが判明し始めた。そのあたりの同定については現在も研究が進行中であるが、確かに言えるのは、少なくとも『中論』を著した龍樹が仏教史上の偉大な龍樹だということである(もっとも大乗仏教的には、極論をいえば、龍樹がフィクションの人物であったとしても何の問題もない)。

 

 さて、はじめに『中論』の序文を引用しよう。この部分はそのまま『中論』のハイライトでもある。

 

 「〔宇宙においては〕何ものも消滅することなく(不滅)、何ものもあらたに生ずることなく(不生)、何ものも終末あることなく(不断)、何ものも常恒であることなく(不常)、何ものもそれ自身と同一であることなく(不一義)、何ものもそれ自身において分かたれた別のものであることはなく(不異義)、何ものも〔われらに向かって〕来ることもなく(不来)、〔われらから〕去ることもない(不出)、戯論(形而上学的論議)の消滅というめでたい縁起のことわりを説きたもうた仏を、もろもろの説法者のうちでの最も優れた人として敬礼する」(p.320)

 

 『中論』の大部分はこの一文の強調あるいは注釈と言ってもよい。ここでは、ブッダに敬意を示しつつ、「空」の中身について「表現」している。ところで問題は、なぜここにきて「空」かということだ。確かに「空」の発想は釈迦の言行のうちにすでにあるが、言いかえれば、なぜ「縁起」ではいけないのかということだ。これを理解するのには、少々理論的な話になるが、背景をおさえておく必要がある。

 

 一般に、上座部仏教(伝統的保守的仏教)では、釈迦の言行から、悟りの内容は「縁起」だとする(「お経を読んでみよう(第五回)無明によって行がある」)。これは「十二縁起」という形で、残っているお経でも何度も述べられているが、十二の精神状態を仮設(仏教ではけせつ、と読む)して、「苦」が根本的には「無明」によって生じるものであるとする。それゆえに「無明」を滅することを目指し、あらゆる特定の精神状態からはなれているのが「悟り」の境地だ。

 ところが、釈迦の言行が口伝の末にそれなりにまとまった形で書きとめられたのがそもそも釈迦の入滅後百年以上経ってからのことであるが、このころには解釈の相違から、すでに教団がいくつかのグループに分かれていた。主要なものとして「上座部」と「大衆部」に分かれた時を「根本分裂」と呼ぶが、さらに時代が下るうちにいくつもの分裂が起こる(枝末分裂)。

 そして、この時に上座部でとくに主流だったものが「説一切有部」(有部)である。これが龍樹の直接の反駁対象となるが、簡単にいえば、有部ではその名の通り一切の「法」を「実有(実在するもの)」とみなすのである。このころはすでに「アビダルマ教学」として詳細な教理の研究があり、理論化する以上はどこかに前提をおかねばならないから、ある意味でこれは当然の帰結である。

 ところが、釈迦の言行からは、たとえ「法」といえども何かを「実在視」する発想は出てこない。釈迦の「言ったこと」だけに注目していれば、確かに「法」だけは絶対視する方向に傾かざるを得ないが、釈迦はあくまでも「指ではなく、指差した先を見よ」である。釈迦の言行は、悟りの境地の「表現・体現」にすぎない。そこで、ある意味で仏教の方向性を修正するような形で、釈迦の説いた「法」をより洗練された形で表現したのが龍樹の『中論』であるというわけだ。

 

 さて、そこで「空」とは何かであるが、ひと言で言えば、「空」とは「有」と「無」を包摂する概念である。つまり、「有」と「無」が片方だけあるのでもなく、両方あるのでもなく、どちらにでも落とし込める一つ上の地平である。したがって、「空」はよく「徹底的に無」であることと誤解されるが、実際には潜在的情報量が最大である概念だ。あえて言えば、「徹底的に無」であると同時に「徹底的に有」であるのが「空」である。

 もっとも、あくまでもそれは「見方」であり「体感」であって、それ自身に実体はないというのが、龍樹が強調していることだ。言ってみれば、「空」という概念そのものも「空」なのである。実体を認めてしまえば、「空」として成立しえない。これについて石飛道子氏は、『「空」の発見』の中で「空は理論か論理か」ということを書いているが、つまるところ「空」とはあくまでも論理、思考に付随するものであり、「現象」としてしかあらわれないものなのである。

 一応、龍樹が反駁対象として直接的に有部を想定していたかはまだ議論されているところであるが、論理的に整理すれば、ともかく龍樹の主旨の一つが「実体論の否定」であることは間違いがない。ひとまず参照文献の中村元『龍樹』の解釈を参照してまとめておけば、「縁起」という言わば単線的な因果関係をみる視点に対して、それを一点に集約させて表現したのが「空」だと言えるだろう。

 つまり、存在には「がある」と「である」がある。前者は「実体論」であり、後者は「現象論」である。そして、「縁起」を法の「表現」だとすればそれはあくまでも「である」に過ぎないが、有部はこれをつきつめた結果、「であるものがある」と認識の地平を転換させてしまったのだ。その結果として、「指さした先」ではなく「指」そのものをみることになってしまったのである。

 

 ところで重要なのは、このような龍樹の『中論』での発想が、釈迦の「中道」というスタイルをも同時に表現しているということである。

 

 「どんな縁起でも、それをわれわれは空と説く。それは仮に設けられたものであって、それはすなわち中道である」(p.381)

 

 「中道」とは「ほどよく」というほどの意味であるが、極端から極端にふれた末に釈迦がみたものであった。ここで龍樹は、「すべては空である」ということ、これを体感するのが「中道」であると説くのである(中観という)。したがって、ここにきて「縁起」と「空」、それに「中道」がひとつに結びつくことになる。つまり、すべての存在は全体で一つであり、「無」でも「有」でもなく、あるいはほかのいかなる偏見をとることもなく、ほどよくある、ということである。

 

 ところが、ふたたび上座部との比較に戻ると、これでは問題が出てくる。何となれば上座部では、煩悩の根源たる無明を滅してニルヴァーナ(涅槃)に入るのが目的だったのである。しかし、「空」の論理を採用した瞬間に、「すべては空」であり、新たに生じたり滅したりということはないのである。それなら、涅槃が「ここではないどこか」にある、あるいは「涅槃に入る」というのは妄想になってしまうであろう。これについて龍樹はこう言う。

 

 「輪廻はニルヴァーナに対していかなる区別もなく、ニルヴァーナは輪廻に対していかなる区別もない」(p.387)

 

 ここで「輪廻」とは因果応報、つまり業(行い)による結びつきから物事が生じることを指すが、龍樹はそれが涅槃(ニルヴァーナ)と同一であるという。つまり、煩悩あるこの世界と、煩悩の火を滅した悟りの世界には、まったく何の違いもないのである。これは、「縁起」や「空」の「すべてはつながっている」あるいは「すべてはすべてである」という発想から論理的に出てくるものであるが、ここから大乗仏教の発想が大々的に花開くことになる。

 事実、これはもっともである。「煩悩」とは生物的欲求のこともさすが、それなら、生きている限りたとえば最低限の食欲に抗うことはできないのだから、その時点で悟れない、つまり生きている人間は悟れないことになってしまうのだ(それだから、のちに「死ぬこと」が「涅槃に入ること」と解釈されるようにもなってしまったが、死んだ人は確かに煩悩はなくても、それを体感している自分がいないのだから、それでは何の意味もない)。

 それゆえに、「今ここで」という釈迦の発想にかえるなら、実は「涅槃」はこの世において、「ここにおいて」しかあらわれようがないのである。つまり、十二縁起のどの状態であれ、悟りの境地であれ、すべては空のうちから縁起によって瞬間的にあらわれるのみであり、たとえ悟ったとしても修行を怠ればすぐに無明ともなるし、あるいは悟りっぱなしでは死あるのみなのである。そこで「何を為すか」ということになるが、それが「中道」なのである。

 

 このあたりはなかなか言葉で伝えるのが難しいが、釈迦が悟ったあと、悟りの世界に居続けることなく「かえってきた」、つまり「如来」となったことにヒントがある。これについては釈迦の入滅の場面などを何度もイメージしていると次第にわかってくるが(「お経を読んでみよう(第六回)残った茸は、それを穴に埋めるがよい」)、一言でいえば、悟るだけでは意味がないし、悟っただけの人は何の役にも立たないのである。

 あるいは当時のインドならまだしも、二千五百年の理論と実践方法の蓄積があるわれわれにとっては、あるいは物理学的にもこの世界に実体はなく関係性により生じていることが常識となっている今では、それを理解したり体感したりすることは容易であろう(すべてについて一度にとはいかなくとも)。たとえば今画面に映るこの文字は、つきつめてみれば微小な枠組みの点滅状態に過ぎず、したがって実体はないが、そうは言っても「無い」かといえば、役割は「ある」のであり、したがって「空」である。

 

 大乗仏教では、つまるところ、煩悩を「小さくして」それを「滅する」のではなく、煩悩を「脇に置いて」それに「とらわれれない」ことを基本としつつ、一方で煩悩を「大きくする」ことを目指すのだ。それがそのまま利他行につながるのである。つまり、自分だけが幸せであるよりも、自分を含めたすべての人が幸せとなるような地平にまで煩悩を引き上げる。このあたりの精神は大乗仏教を知るうちに明らかとなるが、まことに仏教の歴史は解釈・発展の歴史であり、常に現在進行形なのである。

 

龍樹 (講談社学術文庫)

龍樹 (講談社学術文庫)

 

  『中論』は原本の類に合計九つの版があるが、現行の『中論』の全訳でもっとも手にしやすいのは今回参照したこちらに収録のもの。本書には『中論』の全訳とともに、龍樹作と考えられているいくつかの断片集、さらに評伝も三つ収録されている。著者にとって『中論』は卒業論文以来の付き合いとのことであり、解説も豊富である。

 なお、中論の翻訳はほかに西嶋和夫訳『中論 改訂版』も定評があるが品切れ状態だ。学術寄りのものとしては、レグルス文庫に三枝充悳訳で全三巻、原文対照のものがある(「中論―縁起・空・中の思想 (上)」「中論―縁起・空・中の思想 (中)」「中論―縁起・空・中の思想 (下)」)。

 

「空」の発見――ブッダと龍樹の仏教対話術を支える論理

「空」の発見――ブッダと龍樹の仏教対話術を支える論理

 

  石飛道子氏は、龍樹や釈迦との比較について学術書も一般書もいくつか書いているが、どれも読みやすくておすすめである。龍樹やその著作について読むときは(何しろ人物像や著作・活動についても数多の解釈があるので)、それぞれの研究者の観点によく留意しつつ、多角的に理解する必要がある。それはとても幸せな作業である。


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