フリー哲学者ネコナガのブログ

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お経を読んでみよう(第十一回)もしも正当であるならば、よき人々は採用せよ

 今回は、『金剛の針』をとりあげよう。なお、引用は中村元編『原始仏典』から行う。

 

 『金剛の針』は、直接釈迦が説いている形式ではないが、のちの諸経典によく引用されており、一言でいえば「カーストを否定する」という仏教の態度を典型的にあらわしているものだ。書いた人物については、文献証拠としては「アシヴァゴーシャ」とする説と「ダルマキールティ」とする説の両方が考えられるが、おそらくはじめアシヴァゴーシャによって書かれたものがのちにダルマキールティに加筆されたのだとされている。

 

 さて、「カースト否定」の態度が、釈迦の言行のうちにすでに見られるのはよく知られている通りである。何となれば釈迦はカーストにかかわらず出家を認めたのであり、そうした事実をもって「仏教とはカーストを否定するものだ」とまとめられることも多い。しかし釈迦は体系的に教えを説くことはしなかったので、仏教者の立場からの「カースト否定論」としてのちにまとめられたのがこの『金剛の針』というわけだ。

 

 もっとも、以前にもみたように(「お経を読んでみよう(第二回)人は行いによってバラモンとなる」)釈迦はあくまでも「対機説法」を重視するので、人々のあいだで根強い価値観を頭ごなしに否定するということはしない。最初から拒絶されると話が進まないからだ。あくまでも「あなたたちはこのようにやっているけど、このようにすればもっといいのでは」といった形で説いているのである。だから経典にはしばしば「真のバラモン」という言い方が出てくる。

 したがって、ここにきてわざわざ体系化したということは、当時の時代背景なりの論理があったのだろう。仏教では、あくまでも「この世の根本法則」たる「法」があることは認めるが(これを体感すればブッダとなる)、もともと「宗教」ではないから、絶対的な理論や実践の方法を持たない。したがってこのように時代に合わせてさまざまな経典があらわれるのを「悪いこと」だとは思わないのが仏教の特徴だ。手段の目的化が避けられているのである。

 

 さて、『金剛の針』では、冒頭で問題提起がなされている。

 

 「あなたは『バラモン階級は一切の階級のうちで最もすぐれたものである』と考えておられるが、その点についてわれわれは尋ねよう、──このバラモンとは、そもそも何であるのか? それは生命であるのか? 生れであるのか? 身体であるのか? 知識であるのか? 慣習であるのか? ヴェーダであるのか?」(p.339)

 

 ここでは、人々がまったく普通に使っている「バラモン」という言葉、概念に対して根本的な問いかけがなされている。これが書かれた時点での実感については定かではないが、少なくとも「バラモン」という概念がインドにおいて伝統的に根強いものであることは間違いがない。あるいは「バラモン教の否定」は仏教をキャラクタライズする大きな要素の一つでもあるから、ここで少し時代背景についてみておこう。

 

 インドにおいては古代から多くの文明が栄えたが、有名なものとして少なくとも紀元前5000年ころからある「インダス文明」がある。これについては現代においても謎は多いが、20世紀になって遺跡が発掘されたのでともかく存在については確認されている。これはもちろん、かなり雑多なものをインダス文明と一口に呼んでいるのであるが、系統的にはシュメール文明との関係が議論されている。

 このインダス文明が栄えたあと、それと全く系統を異にするものとしてあらわれたのが、アーリア人の文明、およびそれにともなう「ヴェーダの宗教」である。「ヴェーダ」とはもともと「知識」の意味であるが、のちにそれが記された聖典のことを指すようになった。ヴェーダは多神教的発想のもとにアーリア人が整えたもので、こうした「ヴェーダの宗教」を含め、仏教以前のインドにおける宗教を一般に「バラモン教」と呼んでいる。

 アーリア人とは侵入民であり、征服した側なので、当然ながら先住民を支配することになる。そこで祭祀をつかさどる「バラモン」が社会的に優位に立つようになったのだが、当時の支配的な認識としては、バラモンを中心に祭祀を行えば、この世でもよし、あの世でもよしといった具合である。それに対して、そうした思想の根強いところでバラモンでもない釈迦が「自分の行いがすべてである」としたのであるから、そのインパクトは想像に難くない。

 ちなみに、地政学的にいえばインドという場所はもともと北方からの侵略を受けやすいところであり、いく度も侵略があった結果、入ってきた民族はもともといた民族を支配するので、そのようなことが繰り返されるうちに複雑な絶対的上下関係、つまり「カースト制度」ができあがっていった歴史がある。

 

 ともかく、こうしてあまりにも当然であった「バラモン」の絶対性について疑義を示す仏教の態度があらわれているのが、この『金剛の針』である。しかし、実はこの原型ともみえる『ヴァジラスーチー・ウパニシャッド』と題された典籍が、おもしろいことにバラモン教の側にあるのである。つまり、釈迦も対機説法なら、体系化されたこの経典についても、バラモン教の枠組みを(正面から否定するのではなく)「書きかえる」ような形で説かれているのだ。

 

 そこで両者を比べてみると、冒頭で示されている疑問については、ほとんどまったく共通している。したがってそれに対する回答に根本的な態度の違いがあらわれているのだが、仏教の方は、論理的に、あるいは時にバラモンの聖典そのものを引用しながら、「生命」「生れ」「身体」「知識」「習俗」「仕事」「ヴェーダ」のいずれも「バラモンである」ことの根拠にはならないことを述べている。

 もっとも、バラモン教の方でも「これらいずれもバラモンの根拠ではない」とされている点には変わりないが、違いが出ているのは結論においてである。これらを否定した後に出てくるものとして、バラモン教の方では、「真のバラモン」たる条件について相変わらず聖典を根拠にしているのだ。つまり、あくまでも「そうであったから」ということによりかかっているのである。

 これに対して仏教では、すでにご存じの通り「人は本人の行いによってバラモンとなる」という結論である。つまり、バラモン教の方が「過去」に徹底して重きを置くのに対して、仏教の側ではあくまでも、「今ここで考え抜いた結論を採用する」という態度を表明している。それだからこそ、『金剛の針』の結びには次のような言葉がある。

 

 「知性を害ってしまったバラモンどもの迷妄を破るために、われわれの説いたこのことが、もしも正当であるならば、よき人々は採用せよ。またもしもこれが不当であるならば、捨ててくれ」(p.347)

 

 仏教では、権威にすがるということがない。釈迦も含めすべての人は平等に修行者であり、ただ「いかによく生きるか」を考え、実践するのみである。それだからこそ、絶対的な教義や戒律が生じることがないのだ。世界宗教という意味でくらべてみるならば、キリスト教では護教的な論理を発展させる「神学」とともにやはり『聖書』は絶対的であり、あるいはイスラム教でもウラマーと呼ばれる「解釈者」はいるものの『コーラン』や『ハディース』(ムハンマドの言行録)は絶対的である。

 ところが仏教では、釈迦が「発見」した「よき生き方」を学ぶこと、実践することだけが重要なのであり、「書かれたもの」や「言われていること」はすべて、可変的な方便にすぎないのだ。このように、手段が目的化しないように気を配りながら、徹底して「実践」に重きを置くのが仏教の強みであり、また構造的に「時代遅れのものとならない」所以である。

 これを思えば、今後の世界において仏教の役割がますます広がることは明らかだろう。仏教者のしていること、すべきことは、いつの時代どこにあっても変わらないのである。そして、それだからこそ仏教がカーストを否定したように、われわれの社会においても問いなおして否定していかなければならないことは少なくないであろう。お経は読むだけでも救われたような気分になってしまうが、実践して体感してこそはじめて意味があるのだ。

 

原始仏典

原始仏典

 

  今回は本書から引用した。いくつかの初期経典の全訳・抄訳が収録されているが、訳者が六人いながらあえて訳文を統一しない方針なので、一冊でさまざまな訳を読み比べられるのも特徴だ。残念ながら現在では増刷していないようだが、持っておくと便利な一冊である。ちなみにちくま学芸文庫にも中村元『原始仏典』というのがあり、これはこれでおすすめだが、中身が全く違う本なので注意しよう。


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