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フリー哲学者ネコナガのブログ

人間にまつわること、哲学や科学、宗教、社会の問題、生き方のことなど書いています。基本的にエッセイです。

お経を読んでみよう(第十回)これは聖なる修行のなかばではなくして、そのすべてである

 今回は、前回と同じく増谷文雄訳『阿含経典〈2〉人間の感官(六処)に関する経典群・実践の方法(道)に関する経典群・詩(偈)のある経典群』から、「半」と題された部分をとりあげよう。

 「半」は「半分」の「半」だが、その意味については本題から明らかなものとなる。ここでは「実践の方法」の一つが説かれているが、特徴的なのは「友情」がとりあげられている点だ。本来的に「個人主義的」である仏教において、「友情」なるものを釈迦がどうみていたのかは興味深いところだろう。

 もちろん大前提として、ここでの「友情」は日本語の日常語におけるように関係性のことを指しているのではない。それはやはり、最終的には個人の「こころ」の話となるものだ。

 

 そもそも仏教では、修行者は「仏・法・僧」の「三宝」に帰依したてまつるのが基本だ。これは文字通り三つの要素を宝にたとえたものだが、それぞれ「仏」は「ブッダ=悟った人」、「法」は「ダルマ(この世界の根本法則)」、「僧」は「僧伽」のことである。ともかくこの「三宝」に帰依するのが仏教者だ。

 ここで「僧伽」とは、「サンガ」の音写であるが、これはもともと仏教用語ではなく、サンスクリット語で「グループ」をあらわす一般名詞である。だから政治的なものもあればヨーロッパで「ギルド」というような組合も指していたが、仏教ではもっぱら出家者の集団を指した(日本語でお坊さんを「僧」と呼ぶのはここからきているが、もともとは集団を指す名称だ)。だからここでは、「修行仲間」といってよい。

 

 さて、本題はこの修行仲間についてであるが、場面は、アーナンダが釈迦の隣に坐して問いかけるところからはじまる。ちなみにアーナンダ(阿難)というのは付き人のようなかたちで常に釈迦の近くにいた弟子だ。釈迦の十大弟子は特徴によって「○○第一」とニックネームがついているが、アーナンダは傍らにいて説法を聞き続けたので「多聞第一」と呼ばれている。

 

 「大徳よ、わたしどもが善き友情をもち、善き仲間をもち、善き交遊をもつことは、この聖なる修行のなかばにもひとしいと思うのですが、いかがでありましょうか」(p.164)

 

 ここではアーナンダが、どちらかといえば「言い過ぎかもしれませんが」といったニュアンスで、善き友情をもつことが修行の「半分」にもひとしいのではないかと問うている。半分にも等しいとはかなりの度合いであるとみえるが、しかし、これに対する釈迦の返答は意外なものであった。

 

 「アーナンダよ、そのように言ってはいけない。アーナンダよ、そのように言ってはいけない。アーナンダよ、善き友情をもち、善き仲間をもち、善き交遊を有するということは、これは聖なる修行のなかばではなくして、そのすべてである」(p.164)

 

 なんと、アーナンダが半信半疑で「なかばくらいですか」と問うたところ、釈迦はそれどころか「すべてである」と言ったのだ。どういうことだろうか。

 これについて、このあとに釈迦は「八正道」(修行者が実践すべき八つの正しい行動様式。ここでは説明を省く)の実践について説いているので、註によればこれは八正道の強調である。もちろんその通りなのだが、それでは「すべてである」といったことの意味がとれないので、以下に私なりの解釈を書いてみよう。

 

 一言でいえば、ここにおける釈迦の言動にも「縁起」の発想があらわれていると考えられる。釈迦は相手に合わせて教えを説くことを重視したので、言語だけで、しかも改変された形で残っている文章だけを読んでもなかなか全貌はつかみかねる。しかし、大筋としてここで言いたかったのは、とりわけ「友情」ということよりも「すべてはつながっている」ということであろう。

 

 「縁起」についてはすでに説明したが(「お経を読んでみよう(第五回)無明によって行がある」)、これは存在論としては仏教のもっとも重要かつ基本的な考え方だ。つまり、すべてのものごとはあるともないとも言えるのであり、実体はない(空である)が、それなら何によって物事があるように(ないように)みえるのかと言えば、「関係性によって」ということである。

 つまり仏教では「それ自身だけで存在するもの」は一つも認めないのであり、すべての物事がすべての物事の存在根拠であって、「すべてはつながっている」のである。言わば「すべてはすべてである」のであり、どの部分ひとつとっても「すべてが含まれている」といえるのだ。だからこそ仏教では、区別は「名称によるのみ」と考える。事実としては、物事はすべてでひとつなのである。

 これはのちに「一念三千」として天台宗で鍛えられる発想であるが、あるいは空海の「即身成仏」の発想にしても、「一瞬の中にすべてがつまっている」という考え方を抜きにしては語ることができない。仏教ではあくまでも、「すべてはつながっている」のである。それだからこそ、「これくらいである」ということは何についても言えないのだ。それを言えば、あらゆる制約を自ら作り出すことになってしまうからである。

 

 したがって、ここでは「友情」についてというよりは、もっと本質的なメッセージを含んでいるとも考えられるが、とりわけ「すべてである」ことを強調しているのはやはり、アーナンダの問いの中に自らを制限するような「言葉」が含まれていたがゆえの「対機説法」かもしれない。あらわれた言葉より、相手に何が伝わるかが重要なのである。

 

 もっとも「三宝」に戻れば、「仏」や「法」に帰依する(優れたものに対して自己の心身を没入させる)ことは言わば「一人でできる」ことであるが、「他人」の存在を前提とする「僧」への帰依については、少しかかわりが異なるのも事実であろう。何となれば、それは「仏」や「法」に比べると軽視されがちである。それだから、とりわけ修行仲間について「すべてである」と釈迦が言ったことは、よく心に留めておく必要があるだろう。

 のちに仏教には「善知識」という言葉がでてくるが、これは「善き友」のことを指す。これは「友」自身について「善き」と言っているのではなく、あくまでも「友をみる自分のこころ」の「善き」の話である。つまり、「そのような目で見さえすれば」、自分より優れている人であれ、劣っていると考えている人であれ、あらゆる人から学びの機会があるのであり、そのどれも軽視することはできないのだ。

 

 ちなみに、「三宝」への帰依を表明するために日本でよく唱えられているものに「三帰依文」がある。宗派によって微妙に表現は異なるが、代表的には「自帰依仏 自帰依法 自帰依僧」というものだ。いうまでもなく「仏・法・僧に帰依します」という意味だが、「三宝」を忘れないために、ことあるごとに唱えてみてもいいかもしれない。仏教としてはあくまでも「三宝」でひとつであり、どれ一つ欠けても成立しないのである。

 

阿含経典〈2〉人間の感官(六処)に関する経典群・実践の方法(道)に関する経典群・詩(偈)のある経典群 (ちくま学芸文庫)

阿含経典〈2〉人間の感官(六処)に関する経典群・実践の方法(道)に関する経典群・詩(偈)のある経典群 (ちくま学芸文庫)

 

 


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