フリー哲学者ネコナガのブログ

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お経を読んでみよう(第九回)彼らに甘露の門はひらかれたり

 今回は、『阿含経』にある「詩のある経典群」から、「梵天勧請」のエピソードをとりあげよう。

 

 「詩のある経典群」は、阿含経の中では比較的後代にまとまったとされているもので、文字通り「詩」を中心にした形式で書かれているものだ。ただし、内容にも特徴がある。これまで主にとりあげてきたのは、釈迦が「教えを説いている」場面だったが、ここでは伝記のような形で、釈迦の諸々のエピソードがとりあげられているのだ。

 今回も、おなじみの増谷文雄訳『阿含経典』を参照する。「詩のある経典群」が収録されているのは第2巻である。もっとも、ここでは百十九の経を増谷氏が選んで訳しているから、全訳が読みたければ、岩波文庫から二分冊で中村元訳『ブッダ神々との対話』『ブッダ悪魔との対話』として出ている。

 

 さて、今回とりあげるのは「梵天勧請」だが、これは仏教のはじまりの場面のひとつとしてよくあげられるものだ。「梵天」とは「ブラフマン(古代インドの神)」、「勧請」とは「勧め請うこと」であるから、つまりこれは「神がお願いしている」場面である。そして誰にお願いしているのかといえば「釈迦」であるから、「神が釈迦にお願いしている場面」ということで、すごい絵だ。

 もっともこのように、内容は人間釈迦のエピソードでありながら、形式は神話的であるのが「詩のある経典群」の特徴である。もちろん、ここで言う「神」や「悪魔」が比喩表現であることは言うまでもない。たとえば「悪魔」というのは、外に実在するものではなく、自らの内にある煩悩の根源のことを指している。したがって神はその逆だと考えられよう。

 

 さて、場面は、釈迦が菩提樹の木の下で初めて法を悟ったところからはじまる。悟りにいたった過程も気になるところだが、ここではともかく悟ったところからはじまる。

 

 「わたしが証りえたこの法は、はなはだ深くして、見がたく、悟りがたい。寂静微妙にして思惟の領域をこえ、すぐれたる智者のみのよく覚知しうるところである。しかるに、この世間の人々は、ただ欲望をたのしみ、欲望をよろこび、欲望に躍るばかりである。欲望をたのしみ、欲望をよろこび、欲望に躍る人々には、この理はとうてい見がたい」(p.484)

 

 このように釈迦が思っていると、一つの詩が浮かんだという。

 

 「苦労してやっと証得したものを なぜまた人に説かねばならぬのか 貪りと怒りとに焼かれる人々には この法を悟ることは容易ではない これは世のつねの流れにさからい 甚深、微妙、精細にして知りがたく 欲望の激情にまみれたるもの 暗闇に覆われしものには悟りがたい」(p.485) 

 

 つまり、釈迦は当初、悟ったことを誰かに説こうとか、衆生を救おうとかいったことは思わなかったのである。ここでこの文章だけをみると傲慢にみえるかもしれないが、考えてみれば当然だろう。悟った人には何らの感情や価値判断が生じないのだから、これはただ事実をみているだけなのである。悟っている人は「すでに救われている」のであり、本人にとってはもはや、何がどうなろうが無関係であるからだ。

 あるいは、人間的に考えれば、ますますもっともなことかもしれない。何しろ釈迦は、ほかでもない「王子」として生まれたのであり、放っておけば何不自由のない人生であった。それでも釈迦は、自ら抱いた問いを捨てきれず、出家して、先達に教えを請いながら、六年間の苦行を行ったのである。こうして極端から極端にふれた末に、苦行は無益だとして瞑想修行に入り、ようやく悟ったことを考えれば思うところやむなしである。

 

 しかし、ともかくここで「梵天」が登場する。釈迦の心中を知った梵天は、「ああ、これでは世間は滅びるであろう」と考え、釈迦の前にあらわれたのだ。そして、釈迦に合唱・礼拝してこう言う。詩と続けて引用しよう。

 

 「世尊よ、法を説きたまえ。善逝よ、法を説きたまえ。この世には眼を塵に覆わるることすくなき人々もある。彼らも法を聞くことをえなければ堕ちてゆくであろう。この世には、法を理解するものもあるであろう」(p.485-6)

 

 「かつてこのマガダ(摩掲陀)の国にありては 穢れあるもの不浄の法を説けり いまや甘露の門をひらきたまい 穢れなき人の証れる法を説きたまえ 山の頂の厳のうえに立ちて 四方の人々を見おろすがごとく 賢き者よ、あまねく見そなわす者は 悲しみをこえ、法成の楼台に立ちて 悲しみに沈める人々を見そなわし 生と老とに敗れし人々を憐みたまえ 英雄よ、戦いに勝てる者よ、立て 負い目なき者よ、隊商の主よ あまねく世間を遊行したまえ 世尊にましまし、善逝なる師よ 世尊が法を説かせたまえば かならず理解する者もあるであろう」(p.486-7)

 

 涙が出るような詩を詠む神であるが、このように勧請された釈迦は、ふたたび世間を見渡してみる。

 

 「いま世尊もまた、仏眼をもって世間を眺めてみると、そこには、人々の眼の曇りおおきものもあり、曇りすくなきものもあった。利根のものもあり、鈍根のものもあった。善き相のものもあり、悪しき相のものもあった。あるいは、教えやすいものもあり、教えがたいものもあった。またそのなかには、来世の罪のおそろしさに戦いて生きている人々もあった」(p.487)

 

 世間とは、眺めてみるといろいろな人がいるものである。これをみた釈迦は、人々に法を説こうと思い立つ。梵天に答えて示した詩はこうである。

 

 「彼らに甘露の門はひらかれたり 耳あるものは聞け、ふるき信を去れ 梵天よ、われは思い惑うことありて 人々に微妙の法を説かざりき」(p.488)

 

 これが、「梵天勧請 」と呼ばれているエピソードの始終である。ここからは、これに関する解釈について少し書いておきたい。

 

 まず、釈迦の「内面」を描いている点、神話の形式をとっている点からも、このお経が多かれ少なかれ後代に整えられたものであることは間違いがない。つまり、釈迦の心中の描写については、あくまでも想像をベースにしていると考えられる。しかし、われわれがこうして釈迦を語っていることからもいえるように、釈迦が「立ち上がって教えを説き始めた」という行動については間違いがない。そうでなければ仏教はなかったのである。

 そこでこの「行動」をどう解釈するかということであるが、最近話題の魚川祐司『仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か』では、これについて「遊び」と表現されている。つまり、「娯楽」である。「娯楽」とは、何かのために行うのではなく、ただ行うものだ。つまりそこでは、「なぜ」を問うことができないのである。定義上、悟った人は何らの感情や価値判断を持たないのだから、論理的に解釈すればこれは当然の帰結だろう。

 

 もっとも、内面がどうあれ、行動としてあらわれたからには、外から見たその行動の「意味」を考えることは可能である。そこで、たとえばここに「本人だけが救われるのではなく、誰もが救われる」ことを目指す「大乗仏教」の精神がすでにあらわれているとみることもできる。つまり、上座部仏教は釈迦が「語ったこと」に重きを置くが、大乗仏教は釈迦が「行ったこと」に重きを置くというわけだ。

 

 あるいは、これを「慈悲」のはじまりとみることもできる。「慈悲」とは、心に「起こる」ものではなく、悟ったあとに「結果として」あふれでてくるようなもののことだ。西洋では「愛」という概念があるが、仏教では「愛する対象が生じれば、同時に愛さない対象が生じる」ということで、「愛」はかならず価値判断を内包しているから、よいものだとはみられていない。仏教で「愛」とは、「徹底的に自己中心的な欲望」といったニュアンスだ。

 そこで、執着を離れていない段階での「愛」に対して、悟った人だけに生じる「慈悲」の境地というものを考えることができる。それはつまり、「誰かのためになろう」とか、「人々を救おう」とかいった「意図」が心に起こる以前のところで、「行動としてあらわれてしまうもの」である。この境地は、あえて言葉にするとするならば、たとえば『スッタニパータ』にある次の一文がよくあらわしているだろう。

 

 「いかなる生物生類であっても、怯えているものでも強剛なものでも、悉く、長いものでも、大きなものでも、中くらいのものでも、短いものでも、微細なものでも、粗大なものでも、目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでも、すでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは、幸せであれ」(p.37)

 

 このような抽象度の高い言葉は、本気でそれを体感していない限り、出てこないものであろう。ここでは、明らかに時間も空間も超えたところからすべてをみているのである。

 

 いずれにしても、釈迦の内面がどのようなものであれ、今となっては知りようがないそれについては、もはや多くを語るべきではないだろう。確かに言えることは、釈迦の行動のうちに「慈悲」があり、結果として二千五百年後のわれわれにまで、釈迦の説いたことが届いているということである。あえて西洋的な言葉を使えば、それは「コーリング(calling)というものであろう。ただし、語りかけてくるのは「神」ではなく、この世の根本法則たる「法(ダルマ)」である。 

 

 

ブッダ神々との対話―サンユッタ・ニカーヤ1 (岩波文庫 青 329-1)

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ブッダ悪魔との対話――サンユッタ・ニカーヤ2 (岩波文庫 青 329-2)

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仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か

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