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フリー哲学者ネコナガのブログ

人間にまつわること、哲学や科学、宗教、社会の問題、生き方のことなど書いています。基本的にエッセイです。

お経を読んでみよう(第八回)わたしによって説かれなかったことは、説かれないままに受持するがよろしい

お経を読んでみよう

 今回は、有名な「箭の喩えの経」をとりあげよう。「箭」とは「矢」のことだ。前回と同じく、増谷文雄訳『阿含経典〈3〉中量の経典群/長量の経典群/大いなる死/五百人の結集』から引用する。

 

 場面は、長老マールンクヤプッタなる人物の独り言からはじまる。

 

 「どうも、世尊は、これらの問題については、はっきりと説いてくださらない。捨ておかれて、答えを拒みたまう」(p.57)

 

 どうやら、釈迦が答えてくれない問題があるらしい。ここでマールンクヤプッタが「これらの問題」と言っているのは、いわゆる「形而上学的な」問題だ。こうした問題に取り組むのは、どうも当時の流行であったようだ。世界中どこでも同じだが、人は考え始めると抽象的な問いにいたるものらしい。

 具体的にどんな問題かといえば、別のお経だが、ちょうどヴァッチャゴッタ(ヴァッチャ)という人物と釈迦が問答している部分があるのでそこから引用しよう。

 

 「友ゴータマよ、友ゴータマは、〈世界は定常である。これが真実であって、他は虚妄である〉と、そのような意見でありましょうか」

 「ヴァッチャよ、わたしは、〈世界は定常である。これが真実であって、他は虚妄である〉とは言わない」

 「では、友ゴータマよ、友ゴータマは、〈世界は無常である。これが真実であって、他は虚妄である〉と、そのような意見でありましょうか」

 「ヴァッチャよ、わたしは、〈世界は無常である。これが真実であって、他は虚妄である〉とは言わない」(p.46)

 

 ここでヴァッチャが問うているのは、「世界は実在するか、それともしないか」ということである。しかし、ヴァッチャが「どちらなのか」を知りたがっているのに対して、釈迦は「どちらでもない」という態度である。このあと、同じく形而上学的な問題が続くが、ヴァッチャゴッタの言うことに対して、釈迦はすべて「私はそうは言わない」と応じている。

 一応、挙げられている問題を列挙しておくと次のようになる。

 

  • 世界は実在するか(しないか)
  • 世界は有限か(無限か)
  • 霊魂と身体は同じものか(別のものか)
  • 死後の世界はあるか(ないか)

 

 四つの問いに対してそれぞれ「肯定」と「否定」があるから、ヴァッチャゴッタは八回ほど問うことになるが、それらすべてに対して釈迦は「私はそうは言わない」と答えている。

 

 ではマールンクヤプッタに戻るが、こうした問題に対して、「釈迦はなぜ答えてくれないのか」ということである。マールンクヤプッタが言うように、百歩譲って「わからない」が答えであるにしても、それならそれで「わからない」くらい言ってもよさそうなものだ。しかし釈迦は、「ノーコメント」をつらぬく(これを「無記」という)。

 それでもマールンクヤプッタは、釈迦がこれらに答えてくれないなら「修学を拒否して、世俗に還る」というほどの覚悟だから、粘りづよく問うている。そこで釈迦は、たとえ話を始める。実は、先にみたような釈迦の態度は、まさしく対機説法なのであった。雰囲気を感じるためにまるごと引用しよう。

 

 「マールンクヤプッタよ、それは、ちょうど、人があって、厚く毒を塗られた箭をもって射られたようなものである。すると、彼の友人・仲間・親族・縁者は、彼のために箭医を迎えにやるであろう。だが、彼は、〈わたしを射た者は、クシャトリヤ(刹帝利)なのか、ブラーフマナ(婆羅門)なのか、ヴァイシャ(吠舎)なのか、あるいはシュードラ(首陀羅)なのか、それが判らないうちは、この箭を抜いてはならない〉といったとするがよい。また、彼は、〈わたしを射た者は、いかなる名、いかなる姓であるか、それが判らないうちは、この箭を抜いてはならない〉といったとする。また、彼は、〈わたしを射た者は、その皮膚が黒か、褐色か、あるいは金色か、それが知られぬうちは、この箭を抜いてはならない〉といったとする。また、彼は、〈わたしを射た者は、村の人か、市場の人か、あるいは、都市の人か、それが知られないうちは、この箭を抜いてはならない〉といったとする。また、彼は、〈わたしを射た弓は、いったい、張弓なのか、いし弓なのか、それが知られないうちは、この箭を抜いてはならない〉といったとする。また、彼は、〈わたしを射た弓の弦は、アッカ草の弦なのか、サンタ草の弦なのか、ナハル草の弦なのか、あるいはマルヴァー麻の弦なのか、あるいは、乳葉樹の弦なのか、それが知られないうちは、この箭を抜いてはならない〉といったとする。また、彼は、〈わたしを射た箭の羽根はなんの羽根であろうか、鷲のであろうか、蒼鷺のであろうか、鷹のであろうか、孔雀のであろうか、あるいはシティラハヌ鳥のであろうか。それが知られないうちは、この箭を抜いてはならない〉といったとする。また、彼は、〈わたしを射たかの箭柄は、芦のであるか、ロビマのであるか。それが知られないうちは、この箭を抜いてはならない〉といったとする。また、彼は、〈わたしを射たかの箭柄の羽根はなんの羽根であろうか。鷲のであろうか、蒼鷺のであろうか、鷹のであろうか、孔雀のであろうか、シティラハヌ鳥のであろうか。それが知られないうちは、この箭を抜いてはならない〉といったとする。あるいは、また、彼は、〈わたしを射たかの箭柄はなんの筋で巻いてあるのか。牛のであるか、水牛のであるか、鹿のであるか、あるいは猿のであろうか。それが知られないうちは、この箭を抜いてはならない〉といったとする。また、彼は、〈わたしを射たかの箭は、ふつうの箭であろうか、あるいは尖箭であろうか、鉤箭であろうか、狩猟用の箭であろうか、牛の歯型の箭であろうか、あるいはまた、夾竹桃の葉状の箭であろうか。それが判らないうちは、この箭を抜いてはならない〉といったとするがよい。それでは、マールンクヤプッタよ、その人は、それらのことが知られないうちに、そのまま命終しなければならないであろう」(p.62-3)

 

 ここまで言われたら、「もうわかりました」と言うしかないだろう。つまり、毒矢が飛んできて刺さったら、毒矢を射たのは誰か、毒矢の素材は何か、毒の成分は何か等々を考えるよりも、他にやることがあるだろうということだ。前回みたように、釈迦はどこまでも「この世で起こる悩み苦しみを、今ここで滅する」のに役立つことしか説かない。言いたいのはつまり、「矢を抜けば、それで終わりなのではないですか」ということだ。問題があれば「対処する」ことが重要なのである。

 先にみた四つの問いは、「この世界そのものについての問い」と「この生命そのものについての問い」にまとめられるだろう。しかし、これらを「問う」という行為そのものが、そもそも「この世界」「この生命」を前提にしている。つまりそれらは、この世界にあって生きている限り「答えられない問い」なのである。それなら、考えるだけ無駄だろう。

 

 「マールンクヤプッタよ、だからして、わたしによって説かれなかったことは、説かれないままに受持するがよろしい。また、わたしによって説かれたことは、説かれたままに受持するがよろしい」(p.67)

 

 もっとも、現代的にいえば、知的体系の発展という意味ではこうしたことを問うのも無駄なことではない。あるいは、娯楽としては認められるだろう。しかし、厳しい気候環境のもとにあるインドで、当時はエアコンもなく、食料も乏しく、文字通り「生きていることは苦しい」というのが実感そのものであったところでは、仮に答えが出たところで救いそのものにはならない問いに煩わされるよりも、先にやることがあったのだ。

  

 ということで、現代においてはそのあたりの意味合いは少し違ってくるが、少なくとも「原理的に答えの出ないような問い」を抱くことによって、「むしろ悩み苦しみが生じるなら」、端的に考えるのをやめた方がいいということだ。悩みがあれば、まずは悩むのをやめて、ただ対処すべきなのである。

 

阿含経典〈3〉中量の経典群/長量の経典群/大いなる死/五百人の結集 (ちくま学芸文庫)

阿含経典〈3〉中量の経典群/長量の経典群/大いなる死/五百人の結集 (ちくま学芸文庫)

 

 


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