フリー哲学者ネコナガのブログ

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お経を読んでみよう(第七回)わたしはただ道を教えるのみである

 今回は、前回と同じく増谷文雄訳『阿含経典〈3〉中量の経典群/長量の経典群/大いなる死/五百人の結集』から、「数学者モッガラーナの問い」の部分をとりあげよう。最初にいえば、これは仏教の性格をとてもよくあらわしている部分である。

 

 場面は、サーヴァッティーというところにあるミガーラマーターの講堂に釈迦がとどまっているところである。そこに、数学者のモッガラーナなる人物があらわれる。挨拶を交わしたあと、モッガラーナはこう言う。

 

 「たとえば、このミガーラマーターの講堂にまいるのにも、順序をふんで学ぶべきことがあり、順序をふんで作すべきことがあり、また、順序をふんで行くべき道がある。つまり、そのようにして最後の階段に到達する」(p.18)

 

 そしてモッガラーナは、祭祀を行うにしても、弓術をやるにしても、また数学をやるにしても、同じく「順をふんで最後の階段に到るものだ」ということを述べる。これは言わば、議論の前提だ。そして本題として、釈迦が説いている「法」なるものを悟るのにも、このように順序をふんで行うことがあるのか、と問う。学者らしい問いだ。

 これについて釈迦は、然りという態度である。そして修行者が為すべきもろもろのことを、まさしく順を追って丁寧に説明している。しかし、これを確認したモッガラーナは、続けて次のように問う。

 

 「では、尊者ゴータマによって、かくのごとく教えられ、かくのごとく導かれた尊者ゴータマのもろもろの弟子たちは、みなよく究極の目的たる涅槃に到達することをうるであろうか。それとも、ある者はえないであろうか」(p.23-4)

 

 要するにモッガラーナが言いたいのは、悟りに到る道筋、為すべきことも手順もわかっており、釈迦という指導者までいるのなら、誰でも悟れるんじゃないのかということである(こんな皮肉な言い方はしていないが、簡略化した)。

 これに対して釈迦は、質問で返す。問いに問いで返すというのは、相手自身の頭の中で答えが出るようにと釈迦がよくやることだ。 

 

 「婆羅門よ、では、そのことについて、いま、わたしから、そなたに問うてみたことがある。そなたは、思うように、それに答えるがよい。婆羅門よ、これについてそなたはどう思うか。そなたは、ラージャガハ(王舎城)に至る道をよく知っているだろうか」(p.24)

 

 勘のいい人ならこの問いの中にすでに答えをみるであろうが、ともかく問われたモッガラーナは、知っていると答える。すると釈迦は、では、ある人にラージャガハに到る道を尋ねられるところを想像してみよという。少し長いが、そのまま引用する。

 

 「そなたは、彼にかように語るであろう。〈よろしい、わが親愛なる友よ、この道がラージャガハに通ずる。これに沿うてしばらく行くがよい。これをしばらく行くと、そなたは、これこれの名の村を見るであろう。そこで、またしばらく行くがよい。それをしばらく行くと、そなたは、こんどは、これこれの名の村を見るであろう。それをまた、しばらく行くがよい。それをしばらく行くと、ラージャガハの美しい林園、美しい森、美しい原野、そして、美しい池を見るであろう〉と。しかし、彼は、そなたによって、そのように教えられ、そのように導かれても、間違った道をとって、反対の方にむかって行く」(p.24-5)

 

 続けて、もう一人の人がある。そして同じく道を教えると、その者は安全にラージャガハに到るという。つまり、同じ状況にあっても、ある者は到達して、またある者は到達しないのである。そこで釈迦は、なぜこのような違いが出るのかをモッガラーナに問う。モッガラーナはこう答える。

 

 「友ゴータマよ、それをわたしが、どうすることができましょうか。わたしは、友ゴータマよ、ただ道を教えるのみである」(p.26)

 

 ここにきてモッガラーナは、自分で答えを言っている。つまり、これが釈迦の答えそのものである。

 

 「まことに、まさしく、それとおなじように、婆羅門よ、まさしく涅槃は存し、涅槃にいたる道は存し、また、わたしが導師として存する。しかもなお、わたしのもろもろの弟子たちは、わたしによって、そのように教えられ、そのように導かれて、なおかつ、あるものは究極の目的である涅槃に到達し、また、あるものは到達することをえない。それを、婆羅門よ、わたしが、どうすることができようか。婆羅門よ、わたしはただ道を教えるのみである」(p.26)

 

 ここには、仏教の性格がとてもよくあらわれている。釈迦はあくまでも「導師」であり、釈迦自身を崇めても意味はないし、説かれていることに盲目的に従ってもまた意味はない。釈迦の説くことを実践することで、自分のものとして「体感」してはじめて意味があるのだ。仏教ではすべて「自分自身の行いによって」なのである。

 これは、ほかの宗教の教祖や開祖がきいたらひっくりかえるだろう。普通なら、「この世で苦しくてもあの世では」というようにこの世での苦しみを肯定したり、あるいは神の絶対性を持ち出して、「神を信じれば救われる」とでも説きそうなところだ。ところが釈迦は、「本人が自分のこととしてやらなければ、外からはどうしようもない」と言うのだ。

 

 これが、本来的な仏教を「宗教」と呼ぶのが難しい理由である。釈迦は、当たり前の事実を説いているだけなのだ。いかなる悩み苦しみであれ、自分の心がつくり出しているのだから、自分で解消するほかはない。それだから「修行」が必要なのである。修行とは苦行ではなく、日々の行いの中で教えを実践することだ。それによって自らの体感そのものが変わり、まさに「今、ここで、救われる」ということである。 

 だからこそ、釈迦が説いているのは「何を実践すれば、この世界で生じるあらゆる悩み苦しみを滅することができるか」ということだけなのだ。これは徹底しており、この世はだめでもあの世があるとか、神様が助けてくれるとか、苦行をすればその分の見返りがあるとかいったことは一言も言わない。すべては、「今ここで、自己によって苦を滅する」ということなのである。

 

 一応、仏教にも、不殺生(むやみに生物を殺してはならない)、不偸盗(与えられていないものをとってはならない)、不邪淫(度を超えた性行為をしてはならない)、不妄語(嘘偽りを語ってはならない)といった「戒律」はあるが、これは「破ったら罰がある」という類のものではなく、あくまでもアドバイスである。すべては自己責任であり、教えを「体感」として学んで行くのが仏教のスタイルなのだ。

 

阿含経典〈3〉中量の経典群/長量の経典群/大いなる死/五百人の結集 (ちくま学芸文庫)

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