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フリー哲学者ネコナガのブログ

人間にまつわること、哲学や科学、宗教、社会の問題、生き方のことなど書いています。基本的にエッセイです。

「常識」とは何か(2)常識には二つの意味がある

nekonaga.hatenablog.com

 

 以前、「常識とは何か」という記事を書いた。そこでの言い分は「常識のほとんどは言葉にされていない」ということであった。

 もっとも「常識とは何か」ということであれば、そこでは「常識なるものがある」ということを前提としている。しかし、「常識などというものはあるのか」と問うことももちろん可能であるから、それについて少し考えてみたい。

 

 そもそも、「常識」にはいくつかのまったく異なる意味がある。

 

 ひとつは、もっとも常識的な意味での「常識」である。前の記事で扱ったのは、もっぱらこの意味での「常識」であった。もっとも、ここで私は、この「常識」の意味を説明するのに「もっとも常識的な意味での」ということしか言っていないから、これ自体が「常識なるものがある」という前提に立っている。しかし伝わっているであろうから、それ自体がある種の「常識」の存在を証明しているとも言えるだろう。

 では、ここでの「常識」とは何かといえば、これは「常識」という言葉の意味を知っていればいいわけだから、要するに「知識」の話である。つまり、「常識」にはひとつの意味として「常に持っていると想定される知識」というものがある。これは「一般常識」と言う場合の「常識」であり、大人なら当然持っていないと話にならないものである。たとえば「オバマって誰だったかな」という具合にいちいち調べていたら、文字通り会話にならない。

 

 しかし、一方で「あの人は非常識だ」といったような使い方もある。これは「人」を指して言っており、しかも「無常識」ではなく「非常識」なのだから、「知識」の話ではないということになる。これは「コモン・センス」が「常識」とは別に「共通感覚」と訳される場合である。前の記事で「常識の多くはふるまいだ」と書いたが、ここではまさに「知識」ではなく「ふるまい」を共有していることを求めているのである。

 この意味での「常識」については、基準はないであろう。なぜならそれは、「誰もがこうだろうと思われるところのもの」ということだが、思うのはどこまでいっても「私」であるから、個人の頭の中を出ることがないからである。つまり、人によってまったく異なるものとなる。それゆえに重なる部分が少なく、限定的にしか共有されないのである。要するに「非常識だ」というのは、勝手に期待した方の自己責任なのである。

 

 それなら、前者の意味での「常識」は確かにあると言えるが、後者の意味での「常識」については、「ある」とは言っても、誰もが共有可能な形では「ない」ということになるだろう。したがって「常識」という言葉には、「誰もが持っているべきもの」という意味と、「実際は誰もが持つことは不可能であるにもかかわらず、誰もが持っていると想定されてしまうもの」という二つのまったく異なる意味が混在していることになる。

 

 ということで、上の両方を含む「広義での常識」について「とは何か」と問うのはナンセンスかもしれないが、少なくとも「常識」の語義の変遷を考えてみれば、個人と集団の関係性について興味深い知見が得られるのは間違いないであろう。

 というのも、もともと「コモン・センス」とは「すべての感覚に共通」という意味で、「個別の感覚(五感それぞれ)ではとらえられないものをとらえる感覚」のことをさしたからである。つまり今風に言えば「心」のことで、これは個人の中での話だったのである。

 

 そういえば日本の社会学の入門書を読むと、かならずと言ってよいほど「常識を疑うのが社会学だ」という風に書いてあるが、実際は「その社会の成員に常識とみなされていることは何か」を探るのが社会学の仕事であろう。あるいは日本においては、共通の「常識」の通じる範囲を「世間」と呼んだのかもしれないが。

 

共通感覚論 (岩波現代文庫―学術)

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