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フリー哲学者ネコナガのブログ

人間にまつわること、哲学や科学、宗教、社会の問題、生き方のことなど書いています。基本的にエッセイです。

お経を読んでみよう(第六回)残った茸は、それを穴に埋めるがよい

お経を読んでみよう

 今回は『マハーパリニッバーナ』というお経をとりあげよう。これは前回と同じく『阿含経』に属するものだが、説法ではなく釈迦の「死」の場面を描いた特徴的なお経だ。『大般涅槃経』と訳されることもあるが、各言語合わせて九つの版があるらしい。中身はそれぞれ異なっているが、それだけたくさん伝わっていることからも、「釈迦」という人物の生き方が最後まで尊敬されるものだったことがうかがえる。

 

 題は「大いなる死」と訳されているが、まず釈迦の各地での説法があり、ついでクシナーラーにおける死の場面、そして釈迦入滅後の弟子たちの様子が描かれている。ただし、初期のお経の中では後代のものとされており、整理すると事実関係に矛盾が生じる部分もあるので、いずれにしても編集が加わっていることが明らかとなっている。そのあたりは素人でも読めばなんとなくわかるが、実際の姿をどのように想像するかは人それぞれだ。

 前回、増谷文雄編『阿含経典』をおすすめしたので、今回もそこから引用することにする。『マハーパリニッバーナ』が収録されているのは第3巻である。なお、ほかに手に取りやすいものとして岩波文庫に中村元訳『ブッダ最後の旅』があり、これはこのお経だけで一冊になっている。翻訳の違いについては最後に書くことにする。

 

 さて、釈迦は弟子とともに各地へ旅しながら説法を行っているところだが、クライマックスの前に途中で二度ほど病気になっている。そしてのちに死の場面がある。ここで、そもそも「病気になる」というのが、釈迦が超越的な存在ではなく「人であった」ことをよく示していると言えるだろう。最初の病気の場面は次の通りである。

 

 「ところが、世尊は、雨安居に入られてから、重き病を得られ、死ぬばかりの激しい痛みが世尊を襲った。だが、しかし、世尊は、正念・正知にして、痛みを訴えることもなく、堪えたもうた。そして、世尊はかように思われた。〈もしわたしが、侍者にも告げず、比丘たちをも顧みずして逝いたのでは、それは、わたしにふさわしくないことである。ここは、ひとつ、頑張って病に打ち勝ち、寿命を保たなければなるまい〉と。そして、世尊は、精進によって、病を克服し、よく寿命を保たれた」(p.366)

 

 これはヴェールヴァナ村での場面だが、「雨安居」というのは雨期に外に出ずにこもって修行することである。釈迦は、理由はわからないが、雨安居のあいだに病気になったのである。それは「死ぬばかりの激しい痛み」を伴うものであった。しかし、ここでは「まだ死んではならない」という意志が感じられる。それは自らの欲望ではなく、利他の精神である。弟子の一人であるアーナンダは言う。

 

 「大徳よ、世尊の病まれました時には、まったく、わたしの身体は酔ったようになりました。まったく、わたしは、どうしてよいかわからなくなりました。まるで、四方のものが見えなくなったように思いました。だが、しかし、大徳よ、わたしは、〈世尊は、比丘僧伽のことについて、なんらかのおことばがあるまでは、けっして逝かれるはずはありますまい〉と思った時、いささか安堵いたしました」(p.367)

 

 「比丘」は仏弟子、「僧伽(サンガ)」はその共同体のことだが、すでに釈迦の存命中から仏説に帰依する者は多くいた。そうは言っても釈迦も八十歳を数え、そろそろ世代交代の時期がせまっていたのだ。僧伽は自然に形成され、弟子たちも育ち始めていたものの、絶対的な教えをもたない仏教者の間において、指導者、第一人者がいなくなれば混乱は目に見えている。釈迦にころりと逝かれては困るのだ。ともかく釈迦は、この時は死をまぬかれる。

 

 しかし、二度目の病気がやってくる。この時は、一度目と違って病気の原因がはっきり記されている。その描写がどこまで正確かはわからないが、流れを追っておこう。もっとも、大幅に脚色されたとみられる版でも、釈迦が半ば神格化されて描かれている一方で、こうした部分は(人間的に過ぎるにもかかわらず)変化していないので、おそらく当初のものがほぼそのまま残されていると考えられている。

 

 釈迦がパーヴァーに行った時のことだが、そこに鍛冶屋の後継ぎであるチュンダがいた。チュンダは釈迦が来ているという噂を聞きつけ、釈迦のもとへ向かう。そして説法を受けて感動したあと、こう言った。「世尊よ、世尊には、明朝、比丘たちとともに、わたしの家にて、供養の食を受けられることを諾したまえ」(p.414)。釈迦は「沈黙をもって承諾の意を表したもうた」(同)。

 今でも上座部仏教ではそうだが、出家したら食事は一日一食、托鉢によるもののみである。午後は何も食べない。つまり、午前中のうちに誰かがくれなければ食事は無しである(ただし、食事をもらっても礼は言わない。出す方も「自らの行い」としてやっているからで、もらう方も「ください」という態度ではないからだ。ここには個人の自由と自己責任が根付いている)。だからここまではよくある光景だ。

 さてチュンダは、夜のうちに準備して、朝になると釈迦にしらせに行った。そして食事を前に座った釈迦は次のように言う。

 

 「そなたの用意した茸は、わたしに供えるがよい。また、そなたの用意したそのほかの、かたい食物、やわらかい食物は、比丘たちに供えるがよい」(p.414)

 

 つまり、釈迦は茸(キノコ)だけを選んで食した。しかし、これが病気のもとなのであった。「しかるに、世尊は、鍛冶子なるチュンダの食を召された時、激しい病が起り、赤き血がほとばしり出て、死ぬばかりの激しい苦痛を生じた。だが、その時、世尊は、なお正念・正知にして、心憂ることもなく、耐えしのばれた」(p.415)。

 

 ここでは「耐えしのばれた」とあるが、このあと釈迦は、「クシナーラーへ行こう」と言って腹を下したまま旅立ち、まもなくサーラ双樹の下で入滅することになる。素朴に解釈すれば、おそらく毒キノコがまじっていたか何か、あるいは食あたりがあり、それによって症状が出て、釈迦は入滅したことになる。

 ところが、 釈迦はどうも、毒入りであることをわかっていたようなのだ。なぜなら、食事を分けた時に次のように言っていたからである(キノコだけを選び、その他を弟子たちが分けたことを思い出されたい)。

 

 「チュンダよ、残った茸は、それを穴に埋めるがよい。チュンダよ、天界においても、魔界においても、梵界においても、あるいは、沙門・婆羅門の世界においても、人天のこの世界においても、わたしを措いてほかに、それを食して、よく消化できる者はないであろう」(p.415)

 

 一応ことばをみておくと、「天界」 「魔界」はいいとして、「梵界」とは「ブラフマン(古代インドの神)の世界」「婆羅門」はバラモン、「沙門」はバラモン階級以外で出家した仏弟子のことだ。いずれにしてもこれは「あらゆる存在」を示す強調であり、つまり釈迦は、「自分以外のほかの何者にもこれを食べさせてはならない」と言っているようなのである。

 これにしたがえば、釈迦は「たまたま」毒キノコにあたったのではなく、わかっていて食したともみえる。さらにそこから、釈迦は自ら死期を定めているという解釈も成り立つのである。もっともこの部分とて脚色の可能性がないわけではない。あるいは、チュンダ本人にせよ第三者にせよ、釈迦の存在をよろしく思わない何者かがたくらんだと解釈する人もいる。

 私の解釈はまた別のものもあるが、それについてはいずれ書くことにして、ともかく「チュンダにもらったキノコを食べる」「症状が出る」「死ぬ(入滅する、涅槃に入る)」というタイムラインだけはおそらく確かだろう。あるいは病気はすでにあり、キノコ自体はたいした原因ではなかったという解釈ももちろん可能だが、それについてはもはや何も言うことができない。

 もっとも今となっては、実際に何があったか云々以前に、釈迦がいつも示したように「われわれにとってどのような意味を持つか」をみることが重要だろう。訳者の増谷氏が書いているように、どのような脚色があったにせよ、残っているこのお経が輝きを失うことはない。われわれは、このお経を読むことによってのみでも、確かに何かを受け取っていると感じるからである。

 

 では、ついに、入滅の場面をみておこう。すでに弟子たちが集まってきているのだが(ちなみに、前回紹介したマハーカッサパーは旅に出ており、聞きつけて帰りを急ぐも、残念ながら間に合わなかった。それでもマハーカッサパーは、釈迦の死後に経典を編纂するという重要な作業をとりおこない、後継者とみられるようになる)、最後まで弟子たちに何事かを伝えていた釈迦は、次のように言う。

 

 「では、比丘たちよ、汝らに告げよう。〈諸行は壊法である。放逸なることなくして精進せよ〉と。これが如来の最後のことばである」(p.474)

 

 「諸行は壊法である」は、ここでは「諸行は無常である」と同じとみてよい。つまり、あらゆる物事には常なるものはない(決して「むなしい」ではない)。だからこそ、幻想に惑わされることなく、つとめにはげむべし。これは、釈迦が繰り返し説いてきたことであり、釈迦の言行は死を前にしてもまったく変わっていない。そして横になった釈迦は瞑想に入り、そのまま涅槃に入るのである。これが、伝えられている釈迦の入滅だ。

 

 しかし、最後に紹介したいのだが、私個人としては、同日に弟子アーナンダに向けて言った次のものが、仏教者にとって真の「最後のことば」であると思う。

 

 「アーナンダよ、あるいは、汝らにかかる思いがあるやもしれない。〈教主のことばは終った。もはや、われらの教主はいない〉と。だが、アーナンダよ、それをかく見てはならない。アーナンダよ、わたしによって説かれ、教えられた法と律とは、わが亡きのちにおける汝らの師である」(p.471)

 

 私は、この部分は何度読んでも感ずるものがある。これがおそらく、最初期の弟子たちがみていた釈迦のすがたそのものだったのであろう。釈迦が、「生」と「死」との「両方をかけて」伝えてきたことを、私も伝えていきたいと思う。二千五百年前、悟った後の釈迦が教えを説くために立ち上がらなければ、今ここには何もなかったのであるから。

 

阿含経典〈3〉中量の経典群/長量の経典群/大いなる死/五百人の結集 (ちくま学芸文庫)

阿含経典〈3〉中量の経典群/長量の経典群/大いなる死/五百人の結集 (ちくま学芸文庫)

 

  本書ではここに紹介した「大いなる死」のあと、「五百人の結集」として「第一結集」を描いたお経も収録されている。「第一結集」とは、釈迦の死後に弟子たちが行ったお経の編纂作業の第一回である。ちなみに「五百人」というのは、日本で「八百万」といったような感覚で、当時のインドで「たくさん」を表す時の表現だ。

 

ブッダ最後の旅―大パリニッバーナ経 (岩波文庫)

ブッダ最後の旅―大パリニッバーナ経 (岩波文庫)

 
ブッダ最後の旅?大パリニッバーナ経 (岩波文庫)

ブッダ最後の旅?大パリニッバーナ経 (岩波文庫)

 

  本書から釈迦の最後のことばを引用すると次のようになる。「さあ、修行僧たちよ。お前たちに告げよう、『もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成させなさい』と」(p.168)。また、増谷訳では章ごとに解説と註が入っているが、本書では最後にまとめられている。翻訳スタイルとあわせてお好みで。


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