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フリー哲学者ネコナガのブログ

人間にまつわること、哲学や科学、宗教、社会の問題、生き方のことなど書いています。基本的にエッセイです。

口伝より信憑性が高いという「文献」について

nekonaga.hatenablog.com

 

 以前、上の記事に「音読と黙読の違い」について少し書いた。これは情報を受けとる時の違い、つまり「本を聴く」か「本を読む」かの違いということであった。今回はそれ以前の話として、情報伝達において媒体そのものが「音だけ」である場合と「文字がある(本である)」場合の違いについて少しみてみたい。つまり口承・口伝の場合と、文字による伝達の場合である。

 

 読書の歴史において、おそらく「黙読」が主流となったのは比較的最近であることは前の記事に書いた。つまり、「文字」が登場して、「本」(もしくはそれに準ずるひとまとりの書き記されたもの)が登場してなお、多くの人はおそらく声に出して読み上げることを「所定の作法」としていたのである。

 前の記事で推測してみたことからすると、そこでは「文字を見ただけで内容を理解する」という「技術」がそれほど発達していなかった可能性もある。つまり、文字と意味内容が直接むすびついていたのではなく、あくまでも文字は音と意味内容を媒介する補助的な役割に終始していた。そしてその後に、「黙読」が主流になった。

 もちろん、文字による伝達が広まったからこそ時空を超えて伝達できるようになり、また黙読が主流となったと考えられるが、すると今度は「文字」というものがある種の神聖性を帯びてくる。文字は今や、単なる音の写像ではなく、秘めたるものへの「鍵」として市民権を得たというわけだ。一方でこれは「記憶」という行いを「書かれたもの」に委託することにほかならず、だから文字はテクノロジーの一種である。

 

 ともかくそうして、現代のわれわれは、書き記された「文字」によって伝達することを普通に行っている。そして一方で、ある種の通念として「文字による伝達」を「口承」よりも信憑性が高い(「実証的である」)とみなしている。しかし、これはかなりの間違いを含んでいると考えられる。これが今回の本題である。

 

 そもそも、二千年以上をさかのぼる『聖書』や仏教の経典にしても、初めて文字となる以前には口伝の歴史があった。そこでは、書き記された段階でのものを「オリジナル」と考えるのはシンプルに誤りである。あるいは、文字として「定着」することがなければそもそも「オリジナル」という観念が生じないであろうから、そうした「記録的」な書きものについて信憑性云々を持ち出すことがそもそもはずれている。

 あるいは、「神話」ともなると、場合によっては文字になってからの歴史よりも口伝の歴史の方が長かったであろう。今でも文字を持たない文化では、神話や歴史を記憶し、伝承することをつとめとする「語り部」と呼ばれる人々がいるが、語り部は「文字」というテクノロジーに頼っていない分、「記憶・伝承」の技術には明らかに長けているであろうから、単純に比較はできないのである。

 

 「そうは言っても、やはり口承の場合は誤りを生じがちなのではないか」と思われるかもしれない。しかし、これもそうとは言い切れないのである。フランスの脚本家カリエールは、ウンベルト・エーコとの対談で次のように言っている。

 

 「古代の歌や詩はグループで詠唱されるものだったんです。グループで詠唱する場合、誰かが間違えても、他のメンバーがいますから間違いを指摘してやることができます」(『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』p.390)。

 

 前の記事に書いたように、昔の「読書」は「集団」での「音読」だったが、そこにはこうした側面もあったのである。つまり、集団チェックがあるために、少なくとも個人に端を発する誤りは減る。それなら、実は口承の場合の「情報内容の変わらなさ」は文字の場合に匹敵するどころか、それを上回る可能性すらある。なぜなら、実は文字の方が誤りを伝えやすいからである。

 「文字は変化しない」と思われるかもしれないが、これとて先入観に過ぎない。なぜなら、大量複製技術が登場するまでは、文字は人が書きうつしていたからであり、そこには当然ヒューマンエラーも入り込むからである。書写はふつう個人でやるから、いったん間違えるとそのままであるし、また文字として定着したおかげで「前の人の写し間違い」まで同時に保存してしまうことになる。

 あるいは、「文字」がそれほど神聖視されていなかった場合、つまり「文字」を使い始めてなお「文字」が写像に過ぎなかったところでは、伝えるべきは文字ではなく「文字が示す内容」であったから、場合によっては書き写している人が「内容」をよりよく示すために書かれている文章を変えることもあったであろう。『聖書』ですら、聖書学的には明らかに何度も書き換えられているのである。

 また、とくに外国語の場合などは、「書き写す人」はただ書き写しているだけで、文字や語に習熟していない可能性もある。したがって中身を理解していない場合も当然あるから、間違いはますます増えるであろう。現代日本のように、ほとんど誰もが読み、書き、話し、聞く言語能力を持っているという前提で考えるとまったく読み誤るのである。

 

 このようにみれば、「口承」と「文字による伝達」の「どちらが信憑性が高いか」という問いそのものがナンセンスであることがわかる。なぜなら、そこではそれぞれの目的が先にあって、結果的に音や文字があらわれるだけで、何がどうなっていれば望ましいかは場合によって異なるからである。「音か文字か」というような「手段」による分類では、一概には測れない。

 たとえば、目的は「示されている内容」そのものを伝えることなのか、「示すためにあらわれた音」を伝えることなのか、「示すためにあらわれた文字」を伝えることなのか、云々。何が重要な情報となるかは、場合によって異なるのである。われわれは、何かをまるごと伝えることはできないし、そもそもまるごと認識することすらできない。

 あるいは目的が「保存」であるなら、そもそも保存に完璧なものなどないことに留意する必要がある。いちばん単純に言っても、われわれは録音・録画や書き記すことによって何かを保存するが、嗅覚・味覚・触覚情報については、そもそも「保存する」という文化を発達させてすらいない。もしも「中身をそのまま伝える」ことが目的なら、体感そのものの一部であるこれらを、他の感覚を通す形でしか保存しないのはおかしいであろう。

 

 いずれにしても、「文献の方が口承のものより信憑性が高い」という先入観は、単にわれわれがいかに「メディア」という本来「手段」であったものを「目的」として見ているか、あるいはそれにとらわれているか、あるいは文字を神聖視しているか、つまりは「いかにテクノロジーに頼って自分の能力を使っていないか」ということのあらわれに過ぎないのである。

 何であれ単なる資料なのであり、最後に結論を出すのはいつも自分の頭である。信憑性そのものが外部にある、というのは幻想にすぎない。われわれは、取捨選択する生き物なのである。

 

もうすぐ絶滅するという紙の書物について

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もうすぐ絶滅するという紙の書物について

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 実はあまり読まれていないようだが、ウィットに富んだエーコと、飄々としたカリエールのかけあいがとてもおもしろい。乱暴にいえば、本気のマニアとはこういうものか、という感じである。二人とも珍本奇本のコレクター。

 

声の文化と文字の文化

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 音と文字の違いについて、メディア論的にしっかり学びたければ本書が有名。


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