フリー哲学者ネコナガのブログ

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お経を読んでみよう(第五回)無明によって行がある

 今回はいわゆる「十二縁起」説をとりあげよう。これは『阿含経』と呼ばれる一連のお経の中に何度も出てくるものだ。「縁起」は「縁起がいい」といったように日本語にも入っているが、中身はまったく違うので注意する必要がある。日本語には意外と仏教由来の語が多いが、意味は大きく変化しているのでいずれも注意が必要だ。

 前回みたように、仏教には大きく「上座部仏教」と「大乗仏教」があり、大乗が「空」を根本教理とすることは説明した通りだが、それに対して、上座部ではこの「十二縁起」によって釈迦の「悟り」の内容を表現する。つまりこれは、表現が違うだけで指し示しているものは「空」と同じだ。「空」や「縁起」が悟りそのものなのではなく、それによって指しているところが悟りの境地だ。

 

 せっかくなので最初に『阿含経』について説明しておこう。前回みたように、ざっくり言えば後発の仏教によってつくられたお経を「大乗経典」という。これに対して、それ以前の初期のお経に位置するのが『阿含経』と呼ばれているものだ(「阿含」は「アーガマ」(伝わって来たもの)の音写である)。とくに漢訳版を指して阿含経と呼ぶことが多いが、中身はもとのパーリ語経典とおよそ半分以上が同じお経である。 

 もともと、釈迦の死後しばらくして弟子たちが仏説をまとめはじめた時、それらは当時の口語であるパーリ語で書かれた。釈迦は「相手に伝わるかどうか」ということを重視したので、書き残す場合も「口語で伝えるように」と遺言があり、弟子たちはサンスクリット語(文語)ではなくパーリ語で伝えたのだ(実際には釈迦が話していたのはマガタ語とされているが、パーリ語は同じ言語の方言のような関係にある)。

 これら初期の経典が各地で翻訳されながら広まっていったわけだが、中でも『阿含経』について特にまとまった形で残っているのが、元のパーリ語によるものと、中国に入ってできた漢訳版である。ただし、もともとは口伝であったし、言語や解釈の相違もあり、また長い年月を経ているため、各地で伝わるうちに中身が増えたり減ったり、変わったりしている。だからどれがいちばんというわけでない。

 

 したがってどれを読めば『阿含経』なのかといえば、結局あらゆる版を参照しながら真意をつかみとっていくしかないが、そうは言っても阿含経は膨大である。基本的に日本語で全訳するとハードカバーで十~数十冊になる。これは簡単には買えない。仏教で修業を始めるには「仏(悟った人)」「法(この世界の法則)」「僧(修行仲間)」の「三宝」に帰依したてまつるのが条件だが、資本主義社会の在家信者はお経を買いそろえる必要もある。

 ということで、おすすめはちくま学芸文庫に入っている増谷文雄編『阿含経典』(2012年)だ。全三巻になるが、これはパーリ語版と漢訳版の両方を参照しながら、主要な部分を増谷氏が抜粋して日本語訳したものだ。もともと函入りで出ていた6冊をまとめて3冊にしたものだが、文庫なのでどこでも読めるし(どこでも読むべきだ)、ふつうに手に入るので売っているうちに買っておこう。今回はこの増谷版の1巻から引用することにする。

 

 ちなみに、第二回と第三回でとりあげた『スッタニパータ』と『ブッダの真理のことば』も実際は『阿含経』の原典にあたるパーリ語初期経典(ニカーヤ)の一部で、ほかに岩波文庫に中村元訳で入っている『ブッダ神々との対話』『ブッダ悪魔との対話』両書(サンユッタ・ニカーヤ)や『ブッダ最後の旅―大パリニッバーナ経』、『仏弟子の告白―テーラガーター』『尼僧の告白―テーリーガーター』といったものもそうだ。

 

 さて、本題に入るが、「十二縁起」である。まず、「十二縁起」をのべている部分を引用する。

 

 「比丘たちよ、無明によって行がある。行によって識がある。識によって名色がある。名色によって六処がある。六処によって触がある。触によって受がある。受によって愛がある。愛によって取がある。取によって有がある。有によって生がある。生によって老死・愁・悲・苦・憂・悩が生ずる。かかるものが、すべての苦の集積によって起るところである。比丘たちよ、これを縁によって起るとはいうのである」(p.128)

 

 ちなみに「比丘(ビック)」というのは仏弟子のことで、女性形なら「比丘尼(ビックニー)」になる。どちらも音写だから漢字に意味はない。女性の出家は「危ないので」ひかえられていたが(それ以外に理由はない)、望めば認めたのが釈迦である。ここでは弟子たちに向かって、認識するものすべてが「縁によって起る」ことが説かれている。

 簡単にいえば、「縁」とはこの世界でわれわれが認識するすべての物事を成り立たせている根本法則だ。釈迦は、「このことは、如来が世に出ようとも、また出まいとも、定まっているのである」(p.169)としてこれが「根本法則」であることを強調している(「如来」とは、ここでは釈迦自身のこと)。 

 いずれにしても、すべては「縁」によって起るので「縁起」という。「十二因縁」と言われることもあるが、ここでの表現では、先行する要素が原因となって続く要素が生じるとされている。では、それぞれの要素についてみてみよう。

 

  • 無明─悩んでいる状態にあること
  • 行─意志作用
  • 識─認識作用
  • 名色─名称・形・物質性
  • 六処─感覚器官(眼耳鼻舌身意)
  • 触─内と外とが触れること
  • 受─実際に生じる感覚のこと
  • 愛─価値判断
  • 取─とらわれること
  • 有─存在すること・実在視すること
  • 生─生まれること
  • 老死・愁・悲・苦・憂・悩─老いることとすべての感情

 

 

 つまり、無明があるから行があるのであり、以下、すべては一つ外側の作用によって生じている。したがってあらゆる悩み苦しみがあるのは、「無明」つまり世界を正しく観ていないからである。釈迦は、悩みがあるのは生まれたからだ、生まれたのは存在があるからだ、と逆向きに因果をたどることで、人間が抱くすべての悩み苦しみの根本原因を探りだしたということだ。これを「釈迦が菩提樹の下で悟ったこと」と考えるのが上座部仏教である。

 また、釈迦は「それは相依性のものである」(p.169)と言っている。したがってこれらは、すべて同時に生起するものだ。つまり、無明があるから行がある「と同時に」行があるから無明がある(以下同じ)。したがって、どこからでもよいので「正しく観る」ことをはじめ、それを徹底して「悟り」(無明を晴らすこと)に至れば、すべての悩み苦しみは解消される。

 ここで大乗仏教と上座部仏教の解釈を綜合すれば、縁起ゆえに空であり、空であるがゆえに縁起によってすべてが生ずる、となる。つまり、すべての物事は「縁起」によって、双方向的、相互依存的に存在しているので、実体はない(空)ということだ。物事は関係性によって生ずるが、実体はない。実体はないが、関係性によって存在している。それだから「どちら極端になることもなく、ほどほどに」というのが仏教の基本だ(中道という)。

 

 さて、十二縁起は、「すべては心が生み出している」とする仏教の考え方にそのまま通じるものだ。言いかえれば、自分をコントロールすることそのものである。すべては、「心がそうだから」そう見えるのである。それだからこそ、すべての悩み苦しみへの処方箋は「一つ外側から観ること」となるのだ。自分ですべてを生み出しているのだから、自分ですべては変えられるのである。

 たとえば、「愛する人に振り向いてもらえない」という悩みがあるとする。その時、「愛している状態」と「振り向いてほしいという欲望」を持ったままその悩みを解消することはできない。なぜなら、事実その人は振り向いていないからである。しかし、苦しいのはそもそも「誰かをとって誰かをとらない」とか「自分だけを特別視してほしい」といった「煩悩」があるからだと気づけば、悩みはなくなるということだ。 

 あるいは、「幸せ」について考えてみよう。「幸せ」というのは、心の状態以外のなにものでもない。同じような状況で幸せを感じる人もいれば、感じない人もいる。では、幸せである人に共通するものはないのか。実は、あるのである。それは、「幸せを感じている」ということである。すべては心がそうだからそうみえるのであり、何かがあるから幸せなのではない。幸せを感じているから世界がそう見えるということだ。

 これについて最後に、釈迦の十大弟子の一人である大迦葉(マハーカッサパ)のエピソードをとりあげよう。マハーカッサパは、弟子ではあるが釈迦とほとんど同年代であり、よき友であったようにもみえる。同じく『阿含経』の中にあるのだが、あるときマハーカッサパは、(せっかくもらったのだから)ボロボロの服を着替え、ちゃんとした食事をとったらどうかと言われる。しかし、これまでしてきた通りにするという。

 

 「わたしは二つの理由を見るがゆえに、それらのことを讃嘆するのであります。その一つは、現にそれらのことを行じて、わたしは心楽しく住することができるのであります。また一つには、いささかでも、後にいたる人々の参考にでもなればと思うのでございます」(p.353)

 

 つまり、衣食住がどのようなものであれ、心の持ちようは変わらないということだ。そして、どんな環境にあってもそのような心持ちに至れるのだと「他の人に示すために」、むしろそちらが望ましいという。これは、初期の経典の中にすでに見出される「大乗(マハーヤーナ=大きな乗り物)」の精神でもある。

 

阿含経典〈1〉存在の法則(縁起)に関する経典群 人間の分析(五蘊)に関する経典群 (ちくま学芸文庫)

阿含経典〈1〉存在の法則(縁起)に関する経典群 人間の分析(五蘊)に関する経典群 (ちくま学芸文庫)

 
阿含経典〈3〉中量の経典群/長量の経典群/大いなる死/五百人の結集 (ちくま学芸文庫)

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