読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

フリー哲学者ネコナガのブログ

人間にまつわること、哲学や科学、宗教、社会の問題、生き方のことなど書いています。基本的にエッセイです。

お経を読んでみよう(第三回)自分のつとめに専念せよ

 今回は『ダンマパダ』というお経をとりあげよう。前回の『スッタニパータ』と同じく、釈迦の生の言葉をよく伝えているとされる初期のお経だ。

 「ダンマ」とは第一回で説明した「ダルマ」、つまり「法=この世界の根本法則」のことである。「ダンマ」か「ダルマ」かは当時の口語か文語かの違いだ。「パダ」は言葉という意味なので、「真理のことば」と訳されている(「法句経」と訳される場合もある)。今回も「仏説を状況に合わせてわかりやすい言葉で説く」という「お経」の本来の目的を尊重している中村元訳を参照する。

 

 「ダンマパダ」は短いお経だが、その中の「自己」について述べた部分から次の言葉をとりあげたい。

 

 「たとい他人にとっていかに大事であろうとも、(自分ではない)他人の目的のために自分のつとめをすて去ってはならぬ。自分の目的を熟知して、自分のつとめに専念せよ」(p.33)。

 

 これは、一見すると自己中心的で独善的に見える。しかし、仏教では「まず客観的な世界があって、その中にいろいろな人がいる」とは考えない。『ダンマパダ』の最初の一文はこうだ。

 

 「ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される」(p.10)。

 

 つまり、心がすべてを生み出しているのである。したがって、見えているものはすべて自分の心が見たものだ。それゆえに、人の数だけ宇宙がある。「他人がいる」という事実は認めてもかまわないが、それぞれの人にはそれぞれの宇宙があり、自分に見える宇宙は自分の心が作っているのである。

 それだから、世界をよくしようと思ったらまずは自分をよくする必要がある。本当の意味で他人のためになることができるのは、自分が悟っていてこそなのである。「先ず自分を正しくととのえ、次いで他人を教えよ」(p.32)というのはよく出てくる言葉だが、だからこそ初期の仏教は、言わば個人主義で修行するスタイルをとる。他人に何かしてあげられるのは、自分に何かしてあげられる人だけなのである。

 

 仏教では、つとめはげまない者は、「煩悩」というもやがかかって事実を正しくみていないと考える。それら特定のどのフィルターをとることもなく、ありありと世界をみているのが「目覚めている=悟っている」状態だ。それだから、そもそも煩悩のもやがかかった状態で見ている物事に対してはたらきかけようと思っても、ますます無知蒙昧の世界に入り込んでしまうだけなのである。

 「正しくみえていない」ことを、「無明」という。まず無明を晴らして、煩悩の火を消し、自己をととのえる必要がある。「心がすべてを生み出している」という事実を体感して(ただし、心が先にあってすべてが生み出されるのではない。心もまた、すべてが生み出されることによって生じている実体のないものである)、自分を磨くことに専念するのが結果的には他人のためにもなるのである。

 

 お経にある釈迦の言葉には、「自己を島として」という言い方がよく出てくる。孤独は悲しいことではなく、まず最初にある事実なのだ。それだから、ほかの物事にとらわれず、自己だけをよりどころにして生きていることがベースになる。釈迦は、よき師、よき修行仲間とならないものとは付き合うなと言っている。これが仏教を実践するための基本中の基本だ。

 

 仏教に造詣が深い評論家の宮崎哲弥氏は、「仏教者」(氏は仏教を宗教ではなく実践哲学と考えているので、「仏教徒」ではなく「仏教者」を自称する)としての生き方をシンプルに「心静かにして世間を超越し、何物にもとらわれずに淡々と生きるべし」と語っていたことがある。これは私のモットーでもあるが、執着が起こっている時には、この言葉を思い出すと冷静になれる。

 

ブッダの真理のことば・感興のことば (岩波文庫)

ブッダの真理のことば・感興のことば (岩波文庫)

 

 

宮崎哲弥 仏教教理問答(サンガ文庫)

宮崎哲弥 仏教教理問答(サンガ文庫)

 

 文庫化されて読みやすくなった一冊。 日常にひきつけて実践方法を知りたければ、宮崎氏の著作は参考になる。


© 2015 ネコナガ (id:nekonaga)
Amazon.co.jpアソシエイト