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フリー哲学者ネコナガのブログ

人間にまつわること、哲学や科学、宗教、社会の問題、生き方のことなど書いています。基本的にエッセイです。

お経を読んでみよう(第二回)人は行いによってバラモンとなる

お経を読んでみよう

nekonaga.hatenablog.com

 

 前回は「お経とは何か」ということを簡単にみた。今回からは実際にお経を読んでみよう。

 

 今回とりあげるのは、『スッタニパータ』というお経である。これは初期のお経の中でも最も古いもので、つまりは釈迦の生の声に最も近いとされているものだ。日本では『ブッダのことば』として長らく岩波文庫版(中村元訳)で親しまれていたが、今年の春に『スッタニパータ [釈尊のことば]』として講談社学術文庫版の新訳(荒巻・本庄訳)が出て、文庫で二つの訳を読み比べられるようになった。

 二つを比べてみると、中村訳の方は前回説明したような「対機説法」のスタイルを重視しているので、とても平易な言葉で書かれている。一方で講談社の方はもう少し言葉数が多く、形式ばっていて、学術寄りだ。最初は岩波版で読んで、もう少し読み込みたければ講談社版を読むことをおすすめする。今回参照するのは岩波版である。

 

 さて、ここではその中から第三章の九節「ヴァーセッタ」をとりあげよう。ヴァーセッタとは、人の名前である。ちなみに、ほとんどのお経、とくに釈迦の言葉をそのまま書き取ったようなスタイルのお経は、「如是我聞」、つまり「私は(お釈迦様から)このようにききました」とはじまる。

 

 まず、登場人物設定のような描写が出てくる(もちろん実話をベースにしたもの)。それによると、釈迦は「イッチャーナンガラ」という、大富豪のバラモンたちが多く住んでいる村の林に住んでいる。「バラモン」というのはご存じの通り、カーストの最上位に位置する司祭階級だ。

 次に、二人の青年が出てくる。「ヴァーセッタ」と「ヴァーラドヴァージャ」である。二人は座って瞑想修行を行い、脚が疲れたら歩きに出るということをやっていた。そしてある時二人は、「どうしたらバラモンとなるのか」という問いをめぐって議論を始める。

 

 ヴァードラヴァージャの言い分はこうである。「きみよ。父かたについても母かたについても双方ともに生れ(素姓)が良く、純潔な母体に宿り、七世の祖先に至るまで血統に関しては未だかつて爪弾きされたことなく、かつて非難されたことがないならば、まさにこのことによってバラモンとなるのである」(p.132)。

 いったいどのことによってバラモンとなるのだ、と言いたくなるほど厳しい基準だが、ともかくヴァードラヴァージャが重視しているのは血筋である。また、血筋によって品行方正も決まる、といったようにも考えていることがわかる。

 

 一方でヴァーセッタの言い分はこうである。「きみよ。ひとが戒律をまもり徳行を身に具えているならば、まさにこのことによってバラモンであるのである(同)」。

 こちらはとても簡潔だ。とは言え、「どうしたらバラモンとなるのか」というのは現代風に言えば「どうしたらエラい人になれるのか」ということだから、現代から見ればいたってありきたりな回答でもある。たぶん今でも「ルールを守っていて行いがよい人はエラい人である」と思っている人は多そうである(しかし、仏教はこういうどちらがどうとかいう発想とは無縁だ)。

 

 ともかくこんな風であったので、二人はどちらもお互いを説得することができなかった。そこで、ゴータマ(釈迦の本名)という「目覚めた人(ブッダ)」がいるという噂をききつけ、ではその人にきいてみることにしよう、ということになった。

 ちなみに、青年二人は冒頭ではただ「青年」とあるが、註によると二人ともおそらくバラモンの生まれで、「三ヴェーダに説かれていることがらを、われわれは完全に知っています」とあるので、今風に言えば博士課程に在学中の国会議員の息子といったところである。

 

 さて釈迦は、次のように言う。「ヴァーセッタよ。そなたらのために、諸々の生物の生れ(種類)の区別を、順次にあるがままに説明してあげよう。それらの生れは、いろいろと異なっているからである。草や木にも(種類の区別のあることを)知れ。しかしかれらは(『われらは草である』とか、『われらは木である』とか)言い張ることはない。かれらの特徴は生れにもとづいている。かれらの生れはいろいろと異なっているからである」(p.134)。

 

 ここで、「あるがままに説明してあげよう」というのが仏教の第一の特徴である。仏教では、事実をありのままにみることを何より重視する。人間には「煩悩」つまり「価値判断」があるから、物事をありのままにみていないと考えるのである。煩悩を脇に置いて事実をみよ、というのが仏教の大前提だ。そして、すべてに対してこれを行えた瞬間が「悟り」となる。初期の仏教は「悟り」がゴールであるので、これを体感するのが「修行」の目的である。

 

 釈迦の言葉に戻ると、草や木は生れが異なり、したがって区別がある。続けて、昆虫や爬虫類、魚類、鳥類、哺乳類についても同様であるという。かれらには区別がある。では、人間はどうか。ここがポイントである。

 釈迦は、「人類にはそのように生れにもとづく特徴がいろいろと異なっているということはない」(p.135)と言う。これは一見すると、「理念」としての平等主義である。なぜなら釈迦は、理由として「髪についても、頭についても、耳についても、眼についても(中略)、他の生類の中にあるような、生れにもとづく特徴(の区別)は(人類のうちには)決して存在しない」(p.135)と言っているからである。

 ここで釈迦が列挙しているものは、一般に「形質」と呼ばれる自然科学的な性質である。したがって、ふつうの感覚で言えばむしろ、これらには「区別はある」であろう。だから「区別はない」というのは「単なる理念」、むしろ「事実を見ていないのではないか」と思ってしまうかもしれない。しかし、実は違うのである。

 

 釈迦は続けて、このように喝破する。「人間のあいだで区別表示が説かれるのは、ただ名称によるのみ」(p.136)。

 つまり、言語による区別があるから、言いかえれば、認識が特定のフィルターを通したものになっているから、そのような区別が生み出されているのである。人間の「区別」は、「生れによる区別」ではなく、「煩悩(価値判断)による区別」だということだ。それゆえに煩悩をいったん脇に置きなさいというのが釈迦の言わんとしていることである。これが「事実をありのままにみる」ということなのだ。

 

 では結局、誰がバラモンなのか。釈迦はいつも、たとえをいくつも述べて事実を表現しようとするのだが、一文だけ抜き出しておこう。

 「すべての束縛を断ち切り、怖れることなく、執着を超越して、とらわれることのない人、──かれをわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ」(p.137)。

 つまりはこれが、仏教的な「あり方」である。

 

 もっとも、どうしてわざわざ「バラモン」を持ち出すのかと思う人もいるかもしれない。「バラモンであること」も「バラモンでないこと」も等しく「事実ではない」、つまり「幻想である」と言っているのだから、新たにバラモンを描き出すのは本末転倒である。

 しかし、これこそがつまり「対機説法」なのである。聞き手の二人があまりにも「バラモン」という枠組みにとらわれているので、釈迦はその枠組みにあえて乗る形、つまり相手に理解可能な形で答えを示したのである。

 

 もっとも、逆に言えばここから、当時の一般的な価値判断として「バラモンかどうか」ということがいかに強烈に根付いていたかを読み取ることができる。

 

 ちなみに二人の青年はその後、「在俗信者として受け入れてください」と釈迦に帰依している。

 

ブッダのことば―スッタニパータ (岩波文庫)

ブッダのことば―スッタニパータ (岩波文庫)

 

 わりと分厚い文庫本だが、 半分は註で、本文は250ページほどである。

 

スッタニパータ [釈尊のことば] 全現代語訳 (講談社学術文庫)

スッタニパータ [釈尊のことば] 全現代語訳 (講談社学術文庫)

 

  こちらが新訳。「全現代語訳」とあるが、一応書いておくと中村訳も十分に現代語だ。


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