フリー哲学者ネコナガのブログ

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『アウトサイダー』コリン・ウィルソン─人はいかに生きるべきか

 コリン・ウィルソンの『アウトサイダー』を読んだ。ウィルソンという博学な作家が、「アウトサイダー」にあたる人びとをとりあげつつ、その概念を考察したものである。

 ウィルソンは学者ではない。したがって本書は膨大な情報を蒐集してまとめた「論証」というよりは、主観を交えて情報を取捨選択・判断して、何事かを「描く」スタイルをとっている。このあたりがプロの学者ではなく作品性を重視する「作家」の特徴である(もちろん、結果論でもある)。つまり、アイデア勝負である。

 

 そもそも「アウトサイダー」とは何かと言えば、「インサイダー」に対する概念であり、文字通り一枚の壁の「外側の者」を意味する。したがって「そうした概念を理解できる」ということは、本当はだれもが「壁の上に立ち得る」のであり、時にインサイダーであり時にアウトサイダーであると言える。つまり問題の起源は、その都度「壁のどちら側に降りるか」ということである。

 

 しかし、その「どちら側に降りるか」ということについて徹底的に反応してきたのが、実は「近代」というものであった。それが「正気」に対する「狂気」であり、「優等生」に対する「不良」であり、「成人」に対する「子ども」である。あるいはフェミニスト風に言えば、「男性」に対する「女性」となる。

 あらゆる「人間」は、ひとたび「人間である」ことが確定されると、これらの属性による「ふりわけ」を不可避的に受ける。簡潔に言えば、「狂気じみた不良の少女」であるよりも、「優等生であった正気の成人男性」の方が制度的に「普通」とみなされるのが「近代」というものなのである。こうした制度的・心理的な障害を一つ一つ破壊しているのが「現代」である。

 

 しかし、一方でアウトサイダーの存在が、その気になれば古今東西のいたるところに見出されるのにはまともな理由がある。つまりそれは、「インサイダーがいるから」なのである。

 わかりやすく言えば、たとえば「愛と平和」という矛盾した言葉にはそのことが集約されている。つまり、「愛があるから平和が実現する」のではなく、「愛があるから平和が実現しない」のである。なぜなら、「愛するもの」があれば同時に必ず「愛さないもの」が生まれてしまうからである(逆にすべてを等しく愛するのであれば、「愛する」という概念がそもそも成立しない)。

 

 アウトサイダーがインサイダーに「対する」と言ったのはつまり、アウトサイダーの存在を担保しているのが、他ならぬインサイダーだからである。したがってアウトサイダーが生じるには必ず「イン」が先に規定されるが、それは言うまでもなく、特定の時空において支配的な「価値観」、こうあらねばならぬとされている「あり方」である。こうしてアウトサイダーはインサイダーに対して相対的に定義される。つまり、「何か普通の物事」と「それ以外」である。

 ここで、「それ以外」ということはかなり雑多なものがひとまとめにされているわけだが(もちろんそれは「インサイダーの都合で」である)、あらゆる領域におけるそうした「外側の者たち」を逆に「アウトサイダー」という一言でまとめあげ、その本質をえぐりだしているのが本書の特徴である。

 

 ウィルソンは本書において、数人の芸術家や哲学者の実例を挙げながら徐々に「アウトサイダー」なる概念を浮き彫りにさせてゆく。中でも「アウトサイダー」をもっとも端的に表現しているのは、カミュの『シーシュポスの神話』にある「人生は生きるに値するのか」という問いであろう。この問いを自覚しているかはともかく、この問いを「体現している」のがアウトサイダーであると言える。

 これは、ある意味で哲学における最も根源的な問いである。すべての「悩む者」は必ずこの問いに行きつく。つまり、「死ではなく」「生である」のであれば、「なぜこんなにも生きづらいのか」。

 ウィルソンが指摘しているように、これは単なる思想の問題ではなく、「生活」の問題なのである。なぜなら、現実問題として、本人にとっては「普通」でも社会にとっては「普通ではない」ということになれば、それは必ず「生きづらさ」につながるからである。

 したがって、アウトサイダーはアウトサイダーである一方で、常にアウトサイダーであることをやめたがっている。それは「生きたがっている」ということでもある。こうしてアウトサイダーは絶えず、なぜ自分がアウトサイダーたらねばならないのかを問うているのである。

 

 「アウトサイダー」の存在からわかることは、われわれが当然成立していると思っているもの、存在していると思っているもの、「これですべてうまくいく」と思っているものが「いかにそうでないか」ということである。他でもないその事実こそが、人間存在が「インサイダーだけでは成立しない」ことを物語っている。つまりこれは「どちらに立つか」という問題ではなく、「両者を含む一つ上の地平にはいかなる景色があるか」という問題なのである。

 

 ちなみに、「アウトサイダーとは犯罪者である」というのは典型的なレッテルに過ぎない。アウトサイダーにも犯罪者はいるが、インサイダーにも犯罪者はおり、また犯罪者ではないアウトサイダーも多くいるからである。これは、犯罪者か否かとはまったく別の問題であり、インサイダーであれアウトサイダーであれ等しく考えなければならない、「いかに生きるか」という問いについてのことなのである。

 

アウトサイダー(上) (中公文庫)

アウトサイダー(上) (中公文庫)

 
アウトサイダー(下) (中公文庫)

アウトサイダー(下) (中公文庫)

 

 『アウトサイダー』は何度か再版されているが、現行のこの中公文庫版は、集英社文庫版を底本としつつ紀伊國屋書店版から訳者解説を収録しており、さらに新たに解説(内田樹)をつけている完全版である。

 

シーシュポスの神話 (新潮文庫)

シーシュポスの神話 (新潮文庫)

 

 


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