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フリー哲学者ネコナガのブログ

人間にまつわること、哲学や科学、宗教、社会の問題、生き方のことなど書いています。基本的にエッセイです。

「著者」とは何か─ゴーストライターやオリジナリティのことなど

読書論・メディア論

 著者とは何か。「誰か」と問うた方がいいかもしれないが、ともかく「著者」なるものについて考えてみたい。

 

 深く考えなければ、「著者とは、その本を書いた人のことである」と言ってよいだろう。というより、「それ以外に何があるのか」と言う人もいるかもしれない。

 確かに、「著者」という日本語は一般に「その本を書いた人」という意味で使われている。実際に、そう思っていることが期待されているであろう。「著」は「あらわす」と訓読するが、文字通り「著した者=著者」である。英語でも、翻訳者や編集者と区別される「author」という似た言葉がある(原語は「増加させる人」の意)。

 

 あえて考えるとすれば、似た言葉に「作家」や「文筆家」があると言われる。もっとも、「作家」はその本が芸術に属するものだとみなされていることが期待され、「文筆家」は「職業」を表すことに重きを置く表現であるのに対して、「著者」というのはどういう文脈であれ「その本を書いた人」という意味で使われるから、これらは並べて比べるものではないだろう。

 あるいはまた別に「筆者との違い」というのもあるが、これは言わば日本語での決まりごととして普通に使い分けられており、文脈上どちらがふさわしいかは議論せずとも大勢の一致をみるものである。あえて言えば、「筆者」はより広く「その文章を書いている人」ということで、媒体が本に限らず、あるいは一人称で使うことができる点も違いと言えば違いである。

 

 それなら、「著者とはその本を書いた人である」ということでもよさそうなものだが、やはり実際にはそう言い切ることもできないのではないか、というのがここで考えてみたいことである。理由として大きく二つの側面をとりあげたいが、一つはいわゆる「ゴーストライター」の存在にかかわる問題、もう一つは「書いたとはどういうことか」という問題である。

  

 一つ目の「ゴーストライターの存在」というのはわかりやすいが、要するに「著者とはその本を書いた人である」というのが端的に事実ではない場合があるということである。説明するまでもないかもしれないが、つまりは「著者」という名目でクレジットされている人物の名前と、実際に中身を書いた人物がまったくの別人であることがありうる。

 「ゴーストライター」については作曲家の問題で昨年話題になったが、その評価はともかく、少なくとも現今の出版業界ではこれを言い始めると野暮であろう。今では経営者や芸能人、アスリートなど、一昔前なら「著者」にはならなかったであろう著者の本が多くあるが、そうしたものの多くを別人が書いているのはそれなりに知られていることである。あるいはいわゆる「ビジネス書」についても、本人が書いている方が珍しいと言われている。

 

 そもそも、「本を書く」というのは一つの技術であるから、これまで文章作成にかかわっていなかった人がいきなりやってできるものではない、というのは想像すればわかることであろう。ましてや本が求められるような人であれば本業の方に多くの時間を割いているであろうから、一から習得するよりは「プロに頼めば誰もが得する」ということになる。 

 この「誰もが得する」というのがポイントで、つまりは資本主義における合理性である。出版業は利益面ではほとんど慈善事業と言ってよいくらいだが、それでも少ない利益を保って存在できるのは、現代社会へのこうした適応が存在しているからだとも言える。要するに、「著者」という役割にも資本主義の論理が入って不思議はないであろうということになる。キーワードはつまり「分業」である。

 

 そもそも、出版というのは本来的に「分業」依存である。端的に言って、特定のものを大量に生産する場合、全員が一人で最初から最後までやるよりも、各人が特定のことばかりやる方が全体としての生産性は向上する。出版なら、著者以外に編集やデザイン、校正、営業、印刷、取次、運搬、販売など多くの役割においてそれなりの人数がかかわっており、だからこそ著者の取り分は売上の1割(あるいはそれ以下)となる。

 その意味では、ゴーストライター云々以前に、出版業はもともとどれが誰の成果なのか不明瞭だとも言えるだろう。流通や販売はともかく、コンテンツを制作する段階でもすでに複数の人がかかわっているから、「書いたのが誰か」というのがそんなに簡単な話ではないことは明らかである。そもそも企画段階で著者以外の発想が入り込むし、何から何まで著者が自由に書いてそのまま出版されるなどということもまずない。

 あるいは仮に内容が著者の一存で作られていたとしても、その内容がどこからきたのかと言えば、パスカルが『パンセ』で書いているように「他人のものの方が多く含まれている」と言える。ありとあらゆるすべてを一から独創する人などいないし、およそ何かを生み出す活動はすべて「初めに模倣ありき」だからである。つまり「オリジナリティ」の問題というのもあるわけだが、いずれにしても、本の内容は本来的に一人の人間によって担保されているのではないということである。

 したがって「ゴーストライター」に戻れば、これは「本の世界の制作・流通・販売」において、それまで比較的ゆらぎのなかった「著者」という役割にも「分業」が入り込んだだけである、とみることができる。「出版」も資本主義社会では利益を何より重視するほかなく、出版社が「会社として」目的合理的な態度をきっちり取っていれば、むしろゴーストライターが現れないほうがおかしいであろう。

 

 まとめれば、「著者」とは、少なくとも常に「その本を書いた人」とイコールであるというわけではない。あるいはその本を実際に書いていたとしても、その内容が当人からのみきていると言い切ることはできないから、いずれにしても言わば「便宜的に」現れる存在に過ぎないと言える。つまり、いろいろな意味で「そうみなしておくと便利である」がゆえに、表向きは「この本を書いた人」として扱われる人のことである、となる。

 ちなみに、著者は「著作者」ともいつもイコールではない。ゴーストライター本の場合、双方の取り分はその都度異なるにしても、多くは「実際に内容を具現化した人」、つまりライターの方が「著作者」なのであって、著者は名前と情報を貸しているだけだからである(ここでは、著作者を著者と呼ぶことはできるが、著者を著作者と呼ぶことはできない)。おもしろみはない結論だが、何事も構造を知っておくことは重要だということである。

 

ゴーストライター論 (平凡社新書)

ゴーストライター論 (平凡社新書)

 

  本書では「ゴーストライター」という特定のニュアンスを持つ言葉にかわって「チームライティング」という言葉が提案されている。

 

パンセ (中公文庫)

パンセ (中公文庫)

 

  『パンセ』は断片集だが(「人間は考える葦である」が有名である)、(43)に次のようにある。「ある著者たちは、自分の著作について話す時、『私の本、私の注解、私の物語、等々』と言う。(中略)彼らは むしろ『われわれの本、われわれの注解、われわれの物語、等々』と言うほうがよかろう。 というのは、普通の場合、そこには彼ら自身のものよりも他人のもののほうが、よけいはいっているからである」


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