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フリー哲学者ネコナガのブログ

人間にまつわること、哲学や科学、宗教、社会の問題、生き方のことなど書いています。基本的にエッセイです。

人工知能は人間を超えるのか─自分の問題として考えよう

 人工知能系の本をけっこうみかけるようになってきた。おそらく、そろそろ広く議論されてもいいころになってきたのであろう。一般に、科学の世界の成果が広く社会に浸透するまでには50年かかると言われる。人工知能の研究が確固たる領域となってきたのは半世紀ほど前であるから、大まかに言って確かにそろそろ話題になるころである。

 

 ただし、マスメディアでとりあげられている場合は論点がずれているものが多い。それはもちろん「わかりやすいものしか取り上げない」というマスメディアの傾向によるのだが、そこでは有名な人物が人工知能との関係について言及している場合も多いから、よく知らなければそうした発言を鵜呑みにすることになる。

 心理学にはハロー効果(光背効果)というものがあるが、つまり特定の分野で専門家とみなされている人は、まったく異なる他の分野について語っていても無意識に「専門家」とみなされてしまい、聞く方が勝手に説得力を高めてしまいがちなのである。マスメディアは有名人の方が使いやすいから取り上げるだけなのだが、それゆえに結局は「なんだかずれたところで」議論されることになる。

 

 もっとも、人工知能と人間の関係という問題になると、「専門家が誰か」ということは定かではない。そもそも「人工知能の専門家」とは、理論を作るとなれば数学や哲学をベースとしてコンピュータ科学や認知科学の取り分かもしれないが、実機を作るのはプログラマでありエンジニアであるし、人間とのかかわりということで言えば社会科学の取り分であろう。

 それなら、確かにどこまでが専門家かは微妙な問題なのだが、こうしたことも含めてこの問題が難しくなるのは、結局のところ「定義がはっきりしていない」からである。つまり、「人工知能とは何か」、そして「人間とは何か」である。この点をはっきりさせねば議論は始まらないのだが、主張ごとに異なる暗黙の前提から議論されるため、どんどん議論は錯綜する。

 

 では、「人工知能」とは何であり、「人間」とは何であろうか。「人間」の方は古くからある問題だが、実はこの二つは、現代においては密接な関係にあり、どちらも答えは一つではない。というのも、「人間とは何か」を議論するのに多くの学問が限界を感じ始めていたころ、それらの領域を統合して「認知科学」というものが誕生して、境目がよくわからなくなってしまったからである。

 そもそも、人工知能を含めたコンピュータの研究を主にやっているのは当初も今もコンピュータ科学であるが、コンピュータ科学の台頭とともに世界を「情報」の観点からみる考え方が広まったことで、裏から見れば「人間も結局は情報処理装置に過ぎないのではないか」という認識が共有されてきたのである。実際、認知科学とは情報処理の観点から人間を研究する分野である。

 要するに、現代科学的な意味での「人間」の探求と「人工知能」を作る試みは不可分の関係にあるのだが、もう一つの言い方をすればつまり、「人工知能」が「人間の知能を模したものを人間が作ったもの」であるとすれば、大前提として「人間の知能」について知っていなければならないが、実はわれわれは「人間の知能」についてほとんど何もわかっていない、ということに気づいてしまったのである。

 

 したがってこのころから世界的に「脳科学」の研究が隆盛することになる。「脳科学」も曖昧な言葉だが、大きく分けてそれは、解剖学的なもの(脳の物理的な構造をみる)と神経科学的なもの(ニューロン間での情報伝達をみる)、そして認知科学的なもの(人間を人間たらしめている、より高度な情報処理をみる)という段階がある。

 「知能」という面でだけ人間に似ていればいいなら、「人工知能」をつくるには、最低限として結局のところ最後の「高次情報処理」だけ理論化できればよいと言える。しかし、この面での原理的な知識は、研究すればするほど簡単なものではないことが次第に分かってくる。言いかえれば、コンピュータを人間化しようと思って初めて、人間をコンピュータとみる視点を持ち始めたのである。

 そこで、結局のところ「人間の知能」がよくわかっていないままいったいどうやって「人工知能」の研究が進んだかというと、まさに「根本的に同じでなくてもいいから、情報処理という観点からは同じにみえるものを作ろう」ということで、理論を次々と取り替えながら、「人工知能を作る」ということとその結果として「人間の知能を解明する」ということが同時並行で行われたのである(もちろん今も続いている)。

 

 それなら、「人工知能」が「人間の知能とほぼ同じ」、つまり「人工知能」と呼ばれるためにはいったい「どのようなものである必要があるのか」ということになるが、この問題の先がけとして有名なものは、チューリングが「Computing Machinery and Intelligence」(1950年)であげた「イミテーション・ゲーム」の発想である。問いとしては、「機械は考えることができるか」というものであった。

 これはのちに「チューリング・テスト」と呼ばれるようになるが、要するに「壁を隔てて向う側にいるコンピュータが人間と同じふるまいができるか」、つまり「人間が人間だと間違えるほどの情報処理能力を持っているか」によって機械が知能をもつか否かを判定するというものである。この基準を採用すれば、人間について根本からわからなくても「人工知能」を定義することは可能である。

 しかし、裏から言えば、これが「人工知能は人間を超えるのか」という問題を複雑なものとしている一因でもある。というのも、「人間を騙せた時点で」ということになれば、それが人工知能と呼べるかどうかは人によって異なるからである。たまたま騙される人もいれば、同じようにやっても騙されない人もいる。つまり、やっぱり「人工知能」にもいろいろあるし、「人間」にもいろいろいるのである。

 

 ということで、「人工知能とはそもそも何か」という問題はさておき、「今のコンピュータよりも格段に優れている」くらいの一般的な語感で言えば、「人工知能が人間の脅威となる」という発想についてはある程度の答えが想定できると言えるだろう。つまり、人工知能の方がパフォーマンスが高くなる場合においては、よく言われているように、今は人間がやっているいくつかの仕事を代替する可能性がある。それなら一面で「雇用が奪われる」という心配は的を射ているかもしれない。

 一方で、「人工知能」が「人間の知能を超えて人間に害を及ぼし始めるのではないか」という心配をしている人もいる。これについては「2001年宇宙の旅」(おすすめの映画である)で人工知能の「HAL」が宇宙ミッション中に宇宙船内で人間に反逆する、というものが有名であろう。確かにこれはとてもこわい。しかし、実はこわいのはコンピュータでなく人間なのである。

 

 そもそも、人間の知能と違ってコンピュータの特徴は「完璧にプログラム通りに動く」ということである。人間ならば間違えることもあるし、やり方を自分で変えることも可能であるが、コンピュータは事前に人間が教えたことしかできない。それならHALは「教えられた通りに」動いているのであり、つまりそこで「反逆」しているのは、HALではなくHALをプログラミングした人物なのである。

 実際、「反逆する」というのをどう定義するかはさておき、このように高度なことははじめからその通りにプログラミングされていないとコンピュータにできることではない。それはもちろん、プログラムには全体としての一貫性、整合性が求められるからで、バグがあったり物理的な損傷があったら止まってしまうのが常であり、複雑な手順を踏むような何らかの方向に大々的に変わるということはまずありえないからである。

 

 もう一つの問題は、「人間によるプログラミングが必要である」ということ以上に、コンピュータにはエネルギーとして電気が必要だということである。これも、電源を確保しているのは人間であり、仮に「プログラム通りに反逆」しても、端的に電気の供給を切ってしまえば何もできなくなる。コンピュータというのは一方で手のかかるものなのである。

 もちろん、人間が食べたり飲んだりして自分でエネルギーを得ているように、コンピュータも自分でエネルギー供給するようにプログラムを組むことは、原理的には可能であろう(それが普通になればコンピュータは「誕生」さえすればあとは自己完結しているわけだから、自己複製さえできるならすでに生物かどうか微妙な存在となっているかもしれない)。これなら、確かに「プログラム通りに」反逆してきた場合、対処法は簡単なものではなくなる。

 もっとも、これとて同じく、エネルギーを自分で供給する手順をプログラムする人間が背後にいるわけである。ということは、実はもうここでは「人間とコンピュータ(人工知能)の戦い」という構図は成り立たなくなっている。先にみたように、コンピュータの背後には常に人間がいるからで、あるコンピュータがある人間に対して反逆しているとするれば、それは「人間対コンピュータ」の戦いではなく、「プログラミングできる人間」対「止めるすべを知らない人間」の戦いなのである。

 実際、これと原理的に同じことはすでにいくらでも起こっている。それは家庭用コンピュータの創成期からある「ウイルス」や、今では国家さえ簡単に脅かせる「サイバーテロ」である。そこでは明らかに、「攻撃を仕掛ける手段を持っている者」対「防御手段を知らない者」の戦いである。言ってしまえば、これが本当の「情報格差」であろう。

 

 いずれにしても、「人工知能は人間を超えるのか」という問題は一概に述べられることではなく、問題をいくつかに分けてそれぞれについて議論する必要がある。まず、「人工知能」と「人間」の定義については、まだ曖昧である。次に、「人工知能が人間を脅かす」という心配については、あらゆる分野を自分で学び続けて対処するほかない。

 あるいは「仕事が奪われる」という心配については、コンピュータにとってかわられなさそうな仕事を提供できるように自分を磨くしかなく(医療行為ですらそろそろコンピュータ化されそうだから、「手に職をつけておけば」というのはもはや的外れであろう)、一方でどのような社会構造が人間にとってのぞましいのかを議論していく必要があるだろう。

 つまるところ、「人間対コンピュータ」といった漠然とした構図ではなく、すべてを自分の問題として考える必要があるということである。コンピュータは使いこなすための「道具」であり、いかに使いこなせるか(使いこなせないか)というだけの話である。

 

 ちなみに、おもしろい部分なので引用しておきたいが、チューリングは「今から五十年ほど経てば、およそ10の9乗の記憶容量を持つ機械をプログラムできるようになり、その機械にモノマネ・ゲームを実行させると、平均的な質問者が五分間質疑応答を繰り返したとして、それが機械だと正確に判定できない確率は七十パーセントを超えているはずである」と述べている(邦訳は『ノイマン・ゲーデル・チューリング』で読める)。

 

ノイマン・ゲーデル・チューリング (筑摩選書)

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