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フリー哲学者ネコナガのブログ

人間にまつわること、哲学や科学、宗教、社会の問題、生き方のことなど書いています。基本的にエッセイです。

「本のよさ」とは何か─実用的価値と歴史的価値

読書論・メディア論

 「本のよさ」とは何か。これには様々な答え方が可能だが、いくつかの側面をとりあげてみたい。

 そもそもこの問いに答えるためには、(1)ある人がそこで「何を本と呼んでいるか」そして(2)その人が「本に何を求めているか」を考える必要があるだろう。

 

 (1)については自明なようでけっこう自明ではないから、ここがまず問題である。伝統的には「紙の本」ということで、「新聞や雑誌よりも情報量が多く、紙質や装丁がよい、保存に向いている」とかいった形で相対的に定義可能だったかもしれないが、「電子書籍」なるもの、つまり「本」自体の別の形態が登場してから、境界がかなり曖昧なものとなっている。

 というのも「電子書籍」は、今のところ主流である「紙の本を電子化する」という方法以外にも様々なスタイルで作られうるからである。「紙の本を電子化する」というだけなら媒体に依存する性質だけが変化するのかもしれないが、一方で「出版社を通さずに出版する」という別のスタイルとなるといろいろな面で話が違う。

 

 そもそも、情報を伝達するという意味で「本」が新聞や雑誌よりも優れているのは、ほとんどの場合において書いている人が「書いている対象についてのプロ」だからであった。新聞や雑誌において文章を書いているのは、「書くプロ」ではあっても「書かれている対象についてのプロ」ではない場合がほとんどである。

 つまり新聞や雑誌は、「編集」という面では独自の味を出せるが、一つ一つのコンテンツについては文字通り「情報を媒介する」ことに特化している。そこでの利点は、相対的に「速く情報が得られる」ことくらいであり、これに対して本の場合では、「書かれる対象についてのプロ」の視点が介在することで、たんに情報を得られるだけではなく、相対的に「質のいい情報」が得られる。

 これにはもちろん、新聞や雑誌に比べて本は書くまでに十分に時間を使えるということもあるが、いずれにしてもこの文脈で言えば、「本」がいいのは相対的に質のいい情報を得ることができるからであろう(あるいはもう一つ見逃せない点としては、他のメディアと違って「広告主」がいないからタブーを考慮せねばならない程度が低いというのもある)。

 しかし、ここで電子書籍に戻ると、「出版社を通さずに出版する」というスタイルでは、これとて村上龍氏のようにプロの著者が出版する場合もあるものの、素人にも広く門戸が開かれているために、著者が「書かれている対象についてのプロ」であるかは定かではない。さらに中身についても任意であるから、いずれにしても「本」と呼ばれていても「情報の質が高い」とは限らない。そこではつまり、それが「本」と呼ばれるのは、時には媒体だけが従来の「本」と同じだからである。

 

 ということで、そもそも「本とは何か」という点にまで混乱が生じ始めているのはご存じの通りだが、しかし、このあたりの社会的な認識はいずれ定着してゆくのであろう。電子書籍がメインの「本」として呼ばれるのはおそらく、電子書籍の方が圧倒的多数派であるような環境で育つ子どもが多数派になるころであろうから、まだ少しは先の話である。

 もっとも、「手紙」が電子化されて結果的に「メール」となぜか英訳しただけの名称に変わったのも(もちろん英語ではイーメール)携帯電話が「携帯」となぜか電話であることを示さなくなってしまったこともあるし、先々の名称が何になるかは定かではない。今度は電子書籍が今で言う「本」の位置づけになったころ「ブック」とか「電子」とか呼ばれている可能性もなくはないであろう(いや、さすがにこれはないであろう)。

 

 ともあれ、電子書籍を本に含めると話が進まないので、ここでは紙の本を「本」と呼ぶことにする。したがって(2)の「本に何を求めているか」に進みたいが、これについて上にあげた「情報の質の高さ」以外のものを考えてみたい。

 「内容」という意味で言えば、「情報を得る」以外にもたとえば「娯楽のため」といったものもあるが、これは「媒体がたまたま本である」というだけで、他の方法でも求めているものは得られるから、「それでも本がよい」ということになれば、そこでは別の価値も感じていることになるだろう(もちろん「情報を得る」のに本がいいのも、あくまでも出版文化の構造が質を担保しているからで、原理的には本である必要はない)。

 

 では、内容以外で本に求めるものと言えば、端的に言ってそれは「本」が物理的存在であることによって生じるものである。たとえば「質感がよい」とか「読みやすい」とか(紙の本を愛好する人はたぶん誰でも、電子書籍のユーザビリティの低さをまだ感じている)、「貸し借りやプレゼントが容易である」とか、「本棚においておけるのがよい」とかいろいろな見方が可能である。

 もっとも、結局のところこれらは二つの価値意識にまとめることができるだろう。一つはあくまでも「内容」があってこそのもので、言わば内容のよさを補完する形で従属的にあらわれる。内容がない本なら人に贈る価値は生じないし、いくら読みやすくても内容がなければ仕方がない。あるいは「質感がよい」といったことに関しても、おそらくは内容を抜きにしてその価値を感じられる人は多くはないであろう。

 

 したがってもう一つのものとして、時には「内容のよさを超えて」見いだせる価値があることになるが、つまりそれは本の持つ「芸術的・歴史的な価値」と言いかえることができるだろう。俗なものでは、雰囲気作りのためにディスプレイ用として見た目だけで洋書が購入される場合などがこれにあたるが、一方で大量印刷の時代以前、本がとても希少なものとみなされたところでは、「本である」というだけで文化的に高い価値を持つ芸術作品でもあった。

 あるいは、たとえば為政者がなした焚書を生き延びた本だとか、数百年前の本などは内容云々以前にその存在自体に価値が見出されうるし、大量印刷以前の時代は装丁が一点一点異なるからそれも価値になるし、大量印刷ものであってものちの有名作家が50点だけ自費出版したものなどはやはりそれだけで価値があるとみなされる。つまり、本であれば何にでも言える価値ではなく、「その特定の本」であるからこそ見出される価値である。

 

 こうした「今・ここ」であることによって生じる価値はベンヤミンによって「アウラ」(オーラ)という概念でまとめられているが、ベンヤミンによれば、芸術作品は本来的に「礼拝的価値」をもつものであり、のちに「展示的価値」が生じるものである。つまり、当初は儀式に使用されるものであり、一方で時代を経ると時代を経たことそのものが価値を生み出すのである。

 ベンヤミンは「儀式」という言葉をかなり広義で使っているが、本の場合は識字能力がなければ内容にアクセスできないため、歴史的に言えば、それにふれることが今の感覚で言えば本当に「儀式的」であったことは間違いがない。裏から言えば、本は外に開かれていない特定の範囲内でのみ情報を共有するものであり、現代のように「広く情報を共有するために」という名目でも、実際には「読書する人」の間でのみ共有されうるものである(ちなみに、日本では半数の人が月に一冊も読書をしない)。

 ここから「本」にはある種の「神秘的な」価値が生じることになるが、先にあげた「雰囲気づくりのために」本を利用するような場合でも、実際には無意識にこうした神秘的な価値が継承されていると言えるであろう。つまり、本があると「見栄えがいい」のも、あくまでも「本がどういうものとみなされてきたか」という歴史の上に成り立っている価値意識なのである。

 

 あるいは脚本家カリエールと記号論学者エーコの『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』を読むと、「本好き」とは「本を読むのが好き」な場合だけではないということが嫌というほどわかる。蒐集するのが好きな人も、眺めるのが好きな人も、語るのが好きな人も、本書を読めば「上には上がいるものだ」と思わずにはいられないであろう。ちなみに原題(N'espérez Pas Vous Débarrasser Des Livres)は、「本が追い払われるなんて思うなよ」くらいの意味である。

 

 さて、まとめれば、「本のよさ」には二つのものがある。一つは「実用的価値」として他の方法に比べてたまたま本の価値が高くなる場合であり、もう一つは「歴史的・芸術的価値」およびその延長として価値が見出される場合である。

 

 ちなみに、個別の本について言えることを超えて、いくつかの本が集まることによって生じる価値もある。つまり蔵書であるが、たとえば『ヒトラーの秘密図書館』という興味深い本では、ヒトラーの蔵書(一万六千冊と言われている)のうちまとまって残っている千三百点が研究されている。つまり、ヒトラーがいかにしてショア(ジェノサイド)が実行されるほどの差別思想を生み出していったかの分析に使えるのである。これは歴史学的な意味で情報的な価値となりうるであろう。

 一方で先にあげたカリエールとエーコにおいては、二人とも珍説愚説の愛好家であるが、そこでの目的は「教科書に載っていない人類の歴史を探ること」であり、自分自身の本とのかかわりの歴史を通じてそうした営為そのものの価値を継承することでもある。自分が死んだあとの蔵書については、カリエールは「同じような趣味を持っている人の楽しみが増えるので」ばらばらに売られてもいいと考えているが、エーコは「これらが一か所に集まっていること自体に価値があるので」売る場合もまとまったままがよいと判断している。

 このあたりの価値判断そのものも一つの価値であろうから、結果的に「本」の存在から生じる価値はとどまるところを知らないのであろう。その意味では、同じ「本好き」と言ってもそこで見出されている「本のよさ」は、人の数だけあることになる。それなら結局、「本のよさ」は人には言えないものなのである。

 

ベンヤミン・アンソロジー (河出文庫)

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