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フリー哲学者ネコナガのブログ

人間にまつわること、哲学や科学、宗教、社会の問題、生き方のことなど書いています。基本的にエッセイです。

世界宗教のはじまり─差別思想と平等思想

 「差別思想と平等思想」というテーマで「世界宗教」について考えてみたい。ここで注目したいのは、いわゆる「世界宗教」はすべて「平等思想」を内包しているということだ。具体的には、宗教としてはキリスト教、仏教、イスラム教であり、人物としてはイエス、釈迦、ムハンマドである。あまりこういう単純な比較は好まれないが、ブログのような短い分量だからこそ、細部に立ち入らずに、「宗教」というものが人間の歴史の中でどのような意味をもっていたのかがつかめるのではないかと思う。

 

 結論から言えば、これらのちに特定の地域を超えて広範な地域に浸透した「世界宗教」と呼ばれるものの誕生には、「差別思想」から「平等思想」への移行が明確にあるということである。あるいは「移行」というのは不適切かもしれず、実際には世界宗教の誕生とは「革命」そのものであるということだ。つまり、たまたまよく広まって影響力を持ったのではなく、その始まりからしてある種の「革命性」を帯びていたのである。

 具体的には、キリスト教ならユダヤ教の、イスラム教ならベドウィンの、仏教ならバラモン教の、それぞれ当該地域であまりにも強く根付いていた価値観つまり伝統を、(当初から表向きにどこまでそれを主張したかはともかく)論理的には、完全に否定するものとして誕生したということである。

 今でこそ「宗教は宗教の世界で」ということが可能だが、こうした宗教が誕生した時期には政治や実生活と宗教は不可分の関係にあったことはご存じの通りで、それならつまり、社会そのものの価値観を根本から変えるようなものとして誕生した思想は文字通り「革命的」であり、だから長い目で見れば、世界宗教の発生そのものが一つの「革命」とも考えられるだろう。

 

 では、その革命性がどこにあるかというと、先に言ったように「差別思想」から「平等思想」への転換であり、簡単に言うと「自由度の増大」である。個別にみてみる。

 

 まず、「ユダヤ教の伝統からキリスト教へ」だが、そもそもユダヤ教が「一神教」の起源であるにもかかわらず世界宗教になりえないのは、「選民思想」を内包しているからである。つまり、大前提として「ユダヤ人」である必要があり、救われるのはどこまでいってもユダヤ人だけである。要するに、基本的には「生まれによって」決まってしまう(改宗してユダヤ教徒になる場合は、その時点で「ユダヤ人」になる)。

 加えて、ユダヤ教のもう一つの特徴は「契約」という発想であるが、契約とは「甲と乙が対等」であるような関係のことだから、裏から言えば「神と人間が対等」であることになり、たしかに「契約通りに生きていれば救われる」という確信は得られるが、実は「神の超越性」が担保されないということにもなる。

 ちなみに、聖典とはすべて「最初から一つのものとして作られたもの」ではなく「寄せ集められたもの」であるから、ユダヤ教聖書にもメソポタミア起源と思われる話がたくさんあり、メソポタミア神話では神は人間と一緒にふつうに街で暮らしていたりするから、源流において「超越性」が相対的に低いものであったことは間違いない(もっとも、肉体的に近い存在であることと心理的に近い存在であることは別のことであるが)。

 いずれにしても、このような思想風土の中にイエスがでてきたわけだが、イエスはこうした矛盾点を突きながらのちのキリスト教につながる発想を展開する。福音書を読むと随所に「あなたがたも知っているように」といった形で「伝統的にはこう言われているが」という言い回しが出てくるが、これがイエスのスタイルで、それをふまえて話を展開することで聞き手の認識を揺らがせている様子がうかがえる。

 ちなみにこれは「ソクラテス戦略」と呼ばれているもので、はじめからこちらの意見を言うと最初に心理的に壁を作られてしまうので、相手に自ら考えさせて同じ結論に至らせ、結果として思想を共有するために最適な方法である(もっともイエスはユダヤ教徒であり、おそらく新しい宗教をつくっているという自覚はなかったであろうが)。釈迦の説法やムハンマドの政治力にもうかがえるが、宗教の教祖になるにはこういうセンスがかかせないようである。

 さて、結局イエスの思想がどんなものかと言えば、「神はすでにあなたを愛している」というところに集約されるだろう。つまり、ユダヤ教では(流派によっていろいろあるが)「○○をすれば、救われる」というものであったのだが、イエスの発想では「神は無条件であなたを愛している」のであり、「神を信じれば」誰でも救われるのだ。そこでは、あなたがどのような生き方をするか、あるいは生まれがどんなものかは何の関係もない。

 したがって「神と人を対等」とみていることになるユダヤ教に対して、「神の超越性」が一方で開花するのである。もっともこれはイエス自身の発想で、イエスに一度も会ったことがないパウロによってのちに体系化された「キリスト教」の発想とは少しずれが生じている。キリスト教では、イエスの存在によって「神との契約が更新された」と考えるが、イエスはおそらく「契約」という発想そのものを否定しているのである。だから「旧約聖書」に対して「新約聖書」と呼ぶのはある意味で「誤り」となる。

 ともかくこうしてキリスト教が発生すると、少なくとも「誰でも」という点で「平等思想」が生じる。神と人間が対等であるような関係から、神を超越的なものとすることで、逆に人間の間ですべての人が対等となるような関係を見出したのである。だから結果的に広まりやすいものともなる。

 

 次に、「バラモン教から仏教へ」をみてみる。「カースト」という制度自体は今でもあるが(憲法では半世紀前に否定されているのだが)、古代インドでは生まれによって明白な「階級」が決まり、それを前提として社会が成り立っていた。「生まれによって」なので、この時点で「差別思想」である。よく知られているように上から順に「バラモン」「クシャトリヤ」「ヴァイシャ」「シュードラ」であるが、釈迦自身はラージャ(王族・貴族)の息子として生まれたので「クシャトリヤ」である。しかし出家したので言わば「フリー」になった。

 ちなみに釈迦を何と呼ぶかは一つの問題であるが、「釈迦」とはシャーキャの音写で、シャーキャとは当時の国の名前である。釈迦はだから個人名ではないのだが、「釈迦牟尼」(釈迦国の聖人の意)を略してわれわれは釈迦と呼んでいる。「ブッダ」というのも「目覚めた人」という意味で、流派によっては誰もがブッダになれると考えるし(釈迦だけがブッダだと考える流派でも、自分自身の行いによってブッダに近づけると考える点では変わりがない)、仏教以外にすらブッダはおり、またもともと動詞の過去分詞形であるから、やはり固有名詞ではない。しかしゴータマ・シッダールタと呼ぶと言わば「釈迦の釈迦性」が失われてしまうので、ややこしいことになっている。

 さて、バラモン教の骨子は「輪廻転生」つまり「生まれ変わり」であるが、そもそもこれによってカーストが生じると言える。そこには「カルマ」という発想があり、簡単に言えば、生きている時に何をしたかによって来世でどのような身分に生まれるかが決まる。裏から言えば、現世の身分は前世の行いですでに決まってしまっている「運命」なのである。だから現世に生まれてしまったらもう変えようがないということになる(ちなみにこれを曲解したのがオウム真理教である)。

 釈迦はこうした中に生まれたが、カーストも輪廻もカルマも否定している。釈迦の思想もしばらく口伝が続いたあとに書きとめられたものだが、初期のお経で有名な文句の一つに「人は生まれによってバラモンになるのではない。行いによってバラモンとなる」というものがある。実際にはこれは比喩で、本当はカーストそのものを否定しているのだが、釈迦は「対機説法」といって相手に合わせて教えを説いたから表面的にはこういう言い方になっていることもある。伝えたいことが相手に伝わるかどうかが重要なのである。

 だから言葉だけが残ると思想の体系化が行いづらく、「釈迦は何を言っているのか」を次々と流派を生み出しながら延々と解釈し続けたのがその後の仏教の歴史であると言えるが、いずれにしても、釈迦が言いたいのは「今を生きるために今を生きよ」ということで、だから執着すべからずであり、感じている世界の向こう側にある「ありのままの世界」を修行によって体感せよ、となる。ちなみに修業とは瞑想であり、「苦行」によって悟ることは不可能だと釈迦自身が経験している。いずれにしても、理論と実践によって誰でもブッダになれるのであり、生まれは関係ないのだ。

 

 最後に「ベドウィンからイスラム教へ」であるが、そもそもベドウィンとは「砂漠の遊牧の民」を指す一般的な呼称で、「ベドウィンの伝統」とは宗教ではなく、宗教も含んだ社会的慣習のすべてであると言える。それは端的に言って「スンナ」(慣習)と呼ばれる「祖先が脈々と受け継いだ伝統」を徹底的に保持することで、この保守性があまりにも根強かったので、(ムハンマド以前の歴史は研究しづらいが)ムハンマド以前の100年の歴史から1000年さかのぼることもできると言われることもある。

 ベドウィンの伝統とは、一言で言えば「血のつながり」である。それは砂漠で生き抜くための知恵でもあったのかもしれないが、逆に言えば血縁関係を重視することが、数多の小集団内での対立を生み出していた。つまり、構造的に「連帯」が成立しないのである。そんな中でどうしてムハンマドのような人物がでてきたかというと啓示を受けたからであるが(「神秘体験が起きやすい体質」を参照)、ムハンマドの場合はイエスやブッダのように新しい概念を見出したというよりは、すでにあった一神教的伝統を当地域に言わば「応用」したものである。

 これはムハンマドが大まかにイエスから500年後と(ちなみに釈迦からは1000年後)比較的「新しい人物」であることも関係しているであろうが、ともかく「革命的」であることにはかわりがない。いずれにしてもだからイスラム教からすればユダヤ教やキリスト教は言わば「前史」にあたるのだが、ムハンマドの発想はあくまでも「正しい」一神教の伝統にかえることである。それゆえにユダヤ教の改革版であるキリスト教についても、イエスがキリスト(救世主)としてあらわれたとする解釈を否定する。

 そもそも、以前「予言とは何か」にも書いたようにイエスを「救世主」とみるのがキリスト教の基本であるが、イエスが実在した一人の人物であることは歴史学的に間違いなく、ムハンマドはイエスをあくまでも「人」としてみる視点をつらぬく。だから「預言者」ではありえても人間と質的に異なる存在ではありえないのである(ちなみにイエスを人であると同時に神とみるキリスト教の「三位一体説」は、論理的整合性をとるためにあとから採択した教義である)。

 したがってムハンマドはとても「現実主義的」であるわけだが、そうした実感が砂漠の民の間での思想的風土とも符合している。簡単に言えばムハンマドの発想は「アッラーのほかに神はなし」ということだが(アッラーはもともと多神教の中の一つの呼び方で、唯一神のことではなかった)、「神への絶対的帰依」をとることでやはり「人間の間での平等」が担保され、血縁によって差別が生じる構造を超えて「連帯」への道がひらかれることになる。だからのちに都市の商人の間で広まるのである。商人は移動するので、血縁主義は「役に立たない」し、一方で「神」を通して結ばれていればどこにいても関係がない。

 

 したがってこれら「世界宗教」の始まりはいずれも「それまでに根付いていた価値観を論理的に乗り越える形で」生じており、それゆえにのちに社会を根本から動かすことができた。だからある種の「革命」なのである(長い革命ではあるが)。一方で多くの新宗教では、こうした伝統宗教が培ってきた「概念」の呼び方をアレンジしているだけの場合が多く、それぞれの宗教によって「コミットしやすい」状況はあるものの、「新しい価値観の創造」には至っていないことが多い。だから一時的・局所的にしか根付かないのである(それに意味があるか否かは別の話である)。

 

 もっとも、これら宗教の存在意義をそこにみるならば、裏から言えば「平等主義」を打ち立てられるのも「革命」を起こせるのも「宗教」だけではなく、(伝統的には宗教が創造したものであるとしても)他の方法でも可能であるため、「宗教はなぜ存在するのか(2)」で述べたように宗教に固有の存在意義というものはなく、やはり「たまたま宗教という形をとることがある」ということだと言えるだろう。

 

 ただし、歴史的にみて「宗教」が人類が持ちうるあらゆる普遍的な悩みに対して解決方法をもっとも「考え抜いてきた」領域であるのは間違いがないから、その意味では宗教について勉強してみると、他の方法ではなかなか到達できないものでも得られるものが多いのは事実だろう。それはやはり「歴史」ありというもので、「価値観を人々に広める方法」を最も洗練させてきたのはやはり宗教だからである。 

 しかし、裏から言えば、様々な物事に関して「宗教以外の方法もある」現代では、「特定の宗教にコミットすればすべて大丈夫」という発想ははっきり言って安直なものだと言い切れるであろう。つまり、あくまでも「自分の選択として」かかわるという姿勢が重要であるが、だからこそ、個人の選択として「宗教をとる」人々も同様に尊重して、誰もが自分の価値観で生きられる土壌を担保する必要がある。したがってこれを両方やるには、やはり誰もが学び、考え続けるしかないのである。

 

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