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フリー哲学者ネコナガのブログ

人間にまつわること、哲学や科学、宗教、社会の問題、生き方のことなど書いています。基本的にエッセイです。

「アイデア」をどう出すのか

 ブログを読んでくれている友人に「記事に書くことをいつもどうやって決めているのか」と問われたので、その回答をここでも共有しておこうと思う。

 

 私の実感としては、意識して決めているというよりは、たいてい無意識である。基本的に、何をやっていてもなるべくものを考えることを意識しているから、ふとした瞬間に「これを書こう」と思いついている。それだけである。だからこれといって明確な答えはないが、そうは言っても大まかな方法論は語れる。

 ちなみに、自分が書きたくて書く記事もあるが、多くは社会的な意義を目論んでいるもので、つまり「これは多くの人に広めておいて損はないだろう」と思ったことを書いている。ブログを始めた理由はいろいろあるが、いろいろな世界を垣間見ることのおもしろさを伝えようというのも一つの理由だからである。

 

 さて、そもそも「考える」という営為は科学的には脳内での「運動」なのだが、したがって能動的な行為であり、意識して行わなければ勝手に起こるものではない。これは、「テニスをしよう」と思い立たなければテニスをしないのと同じである。ふつうに暮らしていれば、自分の身体が勝手に動いて「気付いたらテニスをしていた」ということはない。

 一般的な用法では、「考える」という言葉はかなり広い意味で使われており、「私はこう考えている」と言ってもそれはただ「思っている」だけの場合も少なくない。「意識」というのはおそらく受動的なものだから、要するに「思っている」というのは外から引き起こされている場合が多いのである。それも情動に根差したものであることが多いから、理性的に考えると「なぜそう思っているのかわからない」ということが多い。

 要するに、その意識状態が大まかに能動的なものに由来するのか受動的なものに由来するのかが区別されていないのだが、日本語では「思った」ことを「考えた」と表現することも多いので(逆もまた然り)、「考えた」とは言っても先に述べたような能動的な行為ではない可能性も高い。だから狭義での「考える」で言えば、「一日中、一度も何も考えていない」ということは十分に起こりうるのである。

 

 それなら、考えるためには「考える体勢」に入ることが必要なわけだが、もっとも、これはそこまで大げさなことではない。思考を喚起するいちばん簡単な方法は、「問う」ことである。私の場合は、たとえば本を読んでいる時にはいちいち反論したりしているし、あるいは道を歩いていても、「電信柱というものはいつからあるのか」とか「なぜ人はいろいろな色の服を着ているのか」とか、いずれにしても自分の脳に入ってきた情報に対して問いを発している。

 問えば、少し考えてその時なりの結論に至る場合もあるが、何も思い当たらなければどこかで知識が足りないということだから、そういう場合は関係していそうな本を読んだり、自分より詳しそうな人にきいてみたりして新しい知識を獲得する。このような時にネット検索を使うのは、「曖昧にしか覚えていないこと」を明確にするためにのみである。「検索」は絞り込むプロセスなので、新たな知識の獲得には向いていない(「なぜアマゾンのおすすめはあてにならないのか」も参照)。

 

 逆に言えば、「考える」というのはほとんどが「問う」ことであり、いったん問いを立ててしまえば、あとは意識ではなく無意識の仕事である。一般に「意識」というのは方向付けを行うだけで、問題に対する最適解は常に無意識が導くからである。つまり、身体的な運動であれ思考であれ、「到達したいところ」を指し示すのが意識であり、「どうやって到達するか」は無意識が担当する。それなら、「答え」の質はすでに蓄えている記憶に依存するし、あるいは答えがすぐに出ない場合は、少なくともその瞬間には、答えが出せる状態ではないということである。

 それゆえに、問うてからだいぶたってから、ふとした瞬間に答えが出ることがある。あるいは問うてもいないのに新たな発想に至ることもある。いわゆる「ひらめき」である。それは、言わば無意識が「考え続けていた」結果なのである。要するに、知識と経験の絶対量とその結びつきが、特定の問いに対する答えを導ける状態になれば、ほとんど自動的に答えが出る。そのプロセスを設計する必要はないのである。

 科学者が、「起きたら答えが出ていた」とか、「夢の中で思いついた」とか言うことがあるが、それは、起きている時に得た情報を、寝ている間(とくにレム睡眠時)に無意識が取捨選択して記憶に組み入れたからである(「人間にとって「夢」とは何か」を参照)。だから目覚めた時は脳内が「整理」されている状態であり、そのプロセスのどこかで無意識が答えを発見していたりするのである。

 

 いずれにしても、結局アイデアを出そうと思ったら、日々大量の情報を入れつつ、問いを発し続けるのが一つのよい方法だということである。興味深いことに、歴史的にみてそれなりに長い間、「考える」という行為はおそらく技術的にはほとんど変化していない。これはまだ、コンピュータでは代替できない「人間のすごさ」なのである。


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