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フリー哲学者ネコナガのブログ

人間にまつわること、哲学や科学、宗教、社会の問題、生き方のことなど書いています。基本的にエッセイです。

人間にとって「夢」とは何か─日常的解釈と科学的解釈

人間・自然・社会

 「人間にとって夢とは何か」について、簡単にまとめてみたい。 

 

 一般に、夢には二つの意味がある。これは日本語に限る話ではない。つまり、一つは、いわゆる「将来の夢」と言う時のような「未来のイメージ」を指すものであり、もう一つは、「寝ている時にみる」ものである。

 もっとも、以前「予言とは何か」に書いたように、古代人にとっては「夢」は言わば「方針決定」の機能を持っていた可能性が高いから、そこでは「寝ている時にみる」ものが「未来のイメージ」そのものでもある。その意味では、実はこれらは同じものを別の側面から表現しているだけであろう。したがって前者の意味は「夢」と「方針決定」が不可分ではなくなったあとに生じたと考えられる。

 もちろん、現在でも「夢」を「予知夢」ととらえる人はいるかもしれないが、多くの人にとって今では「夢」という言葉は最初に述べたように「二つの異なる意味」で使われているであろう。それなら、そもそも「夢」という概念の発端となった「寝ている時に何かを見る」という現象は結局のところ何であるのか。

 

 思想史的に言えば、「夢」について伝統的には三つの説明の仕方があったと言える。

 一つは、精神分析学的な説明である。ある時期ではこれが主流であった。つまり、起きている時には抑圧されて「意識」にのぼらない「無意識」がそこにあらわれるというものである。だからそれを分析すれば、その人の深層心理がわかる、となる。

 次に、起きている時に体験したことを「意味づける」役割がある、というものである。これは今の科学でわかっていることに近づいているが、もっともわれわれは支離滅裂な、文字通り「意味がわからない」夢をみることもあるから、これだけでは筋が通らない。

 最後に、「とくに意味はない」というものである。現在でも、興味がない人にとっては意識的にどう思っているかは別として、無意識にこう感じている人は多いであろう。もっとも、「科学」ということになれば、「なぜそんなものがあるのか」を問わねばならないから、これではすまされない。

 

 そういうわけで、「科学」で現在までのところ到達した結論としては、「夢」とは、人間にとって必要不可欠なプロセスの言わば「副産物」として生じると考えられているとまとめることができるであろう。

 まず、睡眠中の過程には大きく分けて二つのものがある。「レム睡眠」と「ノンレム睡眠」である。「レム」とは、「Rapid Eye Movement(REM)」のことであり、「急速眼球運動」と訳される。これは、寝ている人を観察していたところ、眼は閉じているにもかかわらず眼球がピクピク動いていることがあるとき観察され、どうも睡眠中には大まかに言って「レムが起こっている期間」と「そうでない期間」の繰り返しパターンがあることが分かったのである。

 そこでそれぞれの期間に被験者を起こして「夢」について語ってもらったところ、どうも夢を見ているのはレム睡眠中だということがわかった。だから「今日、夢を見た」と感じるのは「ついさっきまで夢を見ていた」時に目覚めた可能性が高いというだけで、実際は毎日夢は見ているのである。もっとも、今ではノンレム睡眠中にも少しはみていることが共通了解となっており、その比率は大まかに言って8:2であるが、いずれにしても多くはレム睡眠中に夢を見る。

 

 では、レム/ノンレム睡眠中にそれぞれ何が起こっているかというと、大まかに言って、レム睡眠中には日中起きていた時に得た情報を整理していると考えられている。したがってこの時は、身体は休んでいるが脳はむしろ活発に動いているのである。だから覚醒の程度によっては、「意識があるのに身体が動かない」いわゆる「金縛り」が起こる。その理由を知らなければ、理由をつけるべく脳が勝手にストーリーを作るから、場合によっては「幽霊」つまり第三者の存在が簡単に感じられる。

 一方でノンレム睡眠中には言わば全身が「眠り」に入り、成長ホルモンが出て(実際には成長ホルモンを出すホルモンが分泌される)身体を発達させたり、あるいは壊れた細胞を修復したりする。この時は眠りが深いので、多少の外部刺激があったり起こされても目覚めづらいということになる。一般にレム睡眠とノンレム睡眠は90分周期で繰り返すとされているので、だから睡眠時間は3の倍数がいいと言われるのである(もっともこれについてはあまり気にする必要はない。睡眠は量よりも質を考慮すべきである)。

 さて、レム睡眠中にどうやって「情報を整理」しているのかというと、簡単に言えば、昼間得たそれぞれの情報を長期記憶に残すかどうか、つまりあなたの自我に組み入れるかどうかを「海馬」が判定し、残すべきだと判断されたら実際に記憶に投げ込む、つまりネットワークが組み変わるのである。したがってバラバラな断片がポツポツと認識に上がってくるのだが、実際は文字通り「脈絡のない」それらの断片を脳は無理やり結び付けてストーリーを作ろうとするから、時には筋が通っているが時には何が何だかわからない、つまり「夢を見る」ことになる。

 では、これが眼球といったいどう関係があるのかというと、これはどうも関係はあまりないようで、処理の過程で視神経の近くに電流が流れるため、近くにある視神経にも電流が流れてしまうということらしい。つまり「脳」にとっては隣接している部位だから影響を受けやすいというだけであるから、眼が動くこと自体には大きな意味はないかもしれない。

 

 と、ここまでを踏まえて言えば、実は「夢」は「意味はない」がやっぱり正しいかもしれないのである。少なくとも、それ自体には意味はないであろう。言わば、木に生えた「葉」が時間が経つと枯れて落ちるのと同じように、自然に起こるプロセスである。もっとも、意味がなくても葉が散るのを詩にしたり絵にしたり、つまり「文化的に楽しむ」という性質も一方で人間にはあるから、それなら「夢」もそうされることはありうる。だから「夢占い」である。

 冒頭に書いたように、「夢」は一時期までにおいては「方針を決定する」という意味で「人間社会」にとって重要な機能を持っていたのかもしれないが、それが共有されていない今ではつまり、人間にとって夢とは、楽しみたい人が楽しめばいい「娯楽」なのであろう。もっとも、これは寝ている時の「夢」の話で、未来のイメージとしての「夢」についてはつまり、われわれは「寝ている時の夢」に依存せずに、自分で自由に立てられるようになったわけである。それなら、自由意志を存分に利用しない手はないであろう。

 

 ちなみに、「正夢」というのもあるが、これは思い違いである。「時間は流れているのか(2)」に少し書いたが、われわれは常に記憶を使って目の前の現実をみているから、認識は常に「新たな刺激」と「記憶」のミックスである。その「仲介」を行っているのは海馬だが、そこでは言わば、情報が外から来ようが記憶から来ようが関係ないのである。だからときどき「いま外から来た情報」を「記憶から来た」と勘違いする。それが「この光景は夢で見た」という「正夢」であり、あるいは「この光景は以前にも見た」という「デジャビュ」である。

 

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