フリー哲学者ネコナガのブログ

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読書技術の進化史(2)黙読から速読へ

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  前回、「読書」という行為の歴史からすれば、大まかに言って「音読」から「黙読」への変化がみてとれると書いてみた。これをあえて「進化」と呼んでみたのは、少なくとも情報伝達・情報処理という意味では、より効率的なスタイルに変化していると言えそうだからである。それなら、これをさらに進めてみると、「速読」というものの誕生を次なる進化とみることもできるのではないか。したがって今回は「黙読から速読へ」である。

 もちろん、それぞれの読書スタイルにはそれぞれの利点があり、「音読」の場合は「速く読む」ことはあまり期待されていないが(そういう方法もトレーニングとしてはあるのだが)、少なくとも情報処理の効率という意味では、音読→黙読→速読とスタイルが変化することによって理論的な処理速度の限界は上がっているとみえる。したがってここで「進化」と呼ぶのはあくまでも「本は速く読めた方がいい」という価値観を踏まえたものであり、文学鑑賞などには適さないことを先に書いておく。

 もっとも、前回書いたようにそれぞれの技術にはそれぞれに訓練が必要だから、いきなり「速読」をやれば効率が上がるかと言えばそういうわけではない。以下に書くように、音読と黙読には身体的な違いがあるが、速読は黙読を発展させたものだから、言いかえれば黙読を続けるにしたがって次第に速読へと移行する。だから速読のトレーニングは黙読をひたすら続けることなのである。

 

 さて、情報処理の効率という点で言えば、まず「音読」が「黙読」に劣るのは、音読の場合は物理的な運動を伴わなければならないからである。つまり、声を出す必要がある。発声というのは当然ながら筋肉の運動を伴うものであり、言ってみれば人間の身体能力的な制約がかかるから、理論的に言って速度という面では頭打ちになる。要するに、短距離走の世界記録を0.1秒更新することは可能かもしれないが、10秒更新するには人間そのものが根本的に変わらない限り無理であるのと同じである。

 しかし、音声言語から文字言語による伝達へと変わると、入力チャンネルが聴覚から視覚に変わることによって、視覚の特性に即した情報処理が行われることになり、それに伴って聴覚では不可能であったことが可能になる。一言で言えば、聴覚は必ず「順を追って」一つの音ごとに認識する必要があるが、視覚の場合は一文字一文字をわざわざ追う必要がないのである。

 これは、音楽鑑賞と絵画鑑賞を例にとればわかりやすいであろう。音楽の場合、発された音をかならず順番に聴いていく必要がある。つまり、音がまとまってメロディーとなり、メロディーがまとまって曲となるから、認識段階は別として、入力段階では部分の総和が全体であり、全体に到達するにはかならず相応の時間がかかる。しかし、絵画の場合は、細部を細かく順番に見ていかなくても全体を最初に見ることができるのである。

 

 つまり視覚の特性は、一度にすべてを認識できることである。もっとも「黙読」であっても、声には出さずとも「頭の中で音読」している場合もあるが、その段階を超えて「視覚情報と意味が直接結びつく」ようになれば、処理する対象の大きさはいくらでも上げることができる。つまり、単語レベル、センテンスレベル、段落レベルと、次々と「一つ上のレベルでみる」ことができるのである。それなら、理論的に言って処理速度は非線形に上げていけるであろう。

 もっとも、逆に言えば、細部を知らなければ一つ上のレベルでみることはできない。たとえば、哲学史を十分に知っている人が、哲学史入門といった本を読んでいるところを想定してみる。そこでは、著者は「入門者」を想定しているから基本的なことを解説しているであろうが、はじめてその分野にふれる人にとっては、著者の言うことを一つ一つ順に読んでいかなければ意味はわからないであろう。

 一方で、哲学史についてすでに十分な知識がある人なら、著者が解説している知識をすでに持っているから、たとえば「デカルト」とか「コギト」という言葉が目に入った瞬間に、著者の説明を一字一句追わなくても、その段落なり節なり章に何が書かれているかは無意識にわかるであろう。すでに知っているから、意味を読み取る速度が上がる。むしろそこでは、著者がどのような観点から語っているかが読み取れるかもしれない。いわゆる「行間を読む」である。

 もっとも、著者が違えば解釈や説明の仕方も異なるであろうが、視覚は基本的に「新しいもの」しかみないから、仮にそこに何かユニークなものがあれば、全体に目を通してさえいれば脳は自動的に拾ってくれる。だから視覚では「飛ばし読み」が可能になる。飛ばし読みとは、ところどころ読んでいるのではなく、順を追って読むのと同じ内容を、視点をあげることによって効率的に認識しているのである。だからこれは、読む量を減らすことによって相対的に速度を上げるものとは根本的に異なる。つまり、自分の処理能力が上がっているのである。

 

 それなら、知識を増やしていけばそれだけ視点を上げられるようになり、処理速度も上がることになる。したがって「速読」とは、処理レベルを上げることによって相対的に速度を上げた「黙読」のことなのであると言えるであろう。一般に、一字一句を真摯に読んでいくことを「熟読」と言うが、十分な知識があればつまり、速く「熟読」することもできるのである。それならあとは「ページをめくる」という運動に伴う制約しかはたらかないから、理論的な処理速度は飛躍的に上がっていると言える。

 それなら、逆に言えば十分な知識が先にないと速読はできないことになる。だから「速読」の技術は、言わば身体で学んでいくしかないのである。それはスポーツの練習と同じことで、方法論的な知識をいくら身につけても、実践の繰り返しが伴わなければ習得できないのである。つまり、速読について学ぶことと、速読を学ぶことは異なると言える。

 

 いずれにしても、認識の側面に注目すれば、一口に「読書」と言ってもそのスタイルによってやっていることはまったく異なる。そして、どのスタイルをとるかによって理論的な処理速度の限界があるということである。だから「音読」に徹していれば「速読」は生じなかったと考えられるが、一方でこれは言語運用能力の進化とも関係しているのかもしれないから、考えることはまだ多いであろう。

 

読書の歴史―あるいは読者の歴史

読書の歴史―あるいは読者の歴史

 

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