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フリー哲学者ネコナガのブログ

人間にまつわること、哲学や科学、宗教、社会の問題、生き方のことなど書いています。基本的にエッセイです。

時間は流れているのか(2)「流れていない」と考える場合

nekonaga.hatenablog.com

 

 「時間は流れているのか」について考えているところであったが、前回、「時間は流れている」とする場合の類型を簡単にみた。今回は、「流れていない」と考えることもできる場合についてみてみることにする。

 

 まず、「現在」「過去」「未来」という区分で言えば、われわれはふつう、「現在」だけが実在しており、過去や未来は実在していないものと考えている。つまり、過去はもう過ぎたから「ここ」にはあらず、未来はまだ来ていないから同様に「ここ」にはないとみる。ここで重要なことは、いずれにしてもわれわれは、「現在」なるものを決まって「一瞬」だとみなしていることである。これは、けっこう核心をついている直観である。

 なぜなら、科学的に言えば、われわれが「現在」を認識する方法と「過去」や「未来」を認識する方法は、実は同じだからである。冷静に考えてみればそうだろう。そもそも、過去や未来が実在しないのであれば、「実在しないものをどうやって認識するのか」という問題がある。それゆえに、過去や未来を認識する方法は言わば、現在を認識する方法と同じでしかありえないのである。

 

 では「いかにして」ということになるが、実はわれわれは、「現在」を認識している時でさえも、目の前でいま起きていることをそのまま見ているわけではない。人間の感覚はすべて「変化」を認識するために進化してきたが、大きな変化がないことについてはとくに新たに認識する必要もないということで、われわれは「部分」を見た段階で「似たようなもの」が記憶に蓄えられているとわかると、勝手にそれで全体を補完する性質を持っている。

 これは、何を認識するのにもわれわれが「カテゴリー」というものを用いる理由でもあるが、要するに、ほとんど変わらないものは同じものであるとみなすのである。なぜこんなことをやるかというと、脳はけっこうエネルギーを使うから(質量で言うと身体全体の2%に過ぎないが、エネルギーは20%消費している)、処理するタスクが少ないに越したことはないということで、要するに省エネ戦略である。だからこれは、生存競争の中ではきわめて実利的な理由があると言える。

 それなら、そもそも「記憶を利用しない認識はありえない」ということにもなるのだが、ともかく「現在」というのは現在を見ているようで、半分は過去を見ているのである。というより、そこでは「過去」とか「現在」とかいった区別はなくなってしまう。われわれの認識は常に、「認識するもの」と「認識されるもの」の不可分な結節点に生じており、そこでは、「現在」や「過去」といった概念そのものが成り立たないかもしれないのである。

 

 ここで、考えを進めるために「記憶」についてみてみる。「記憶」には三つの種類がある。一つは自分が体験したのではない、いわゆる「知識」の記憶としての「意味記憶」である。次に、パターン化されるような運動(たとえば自転車の乗り方)の記憶としての「手続き記憶」があり、最後に、個人的な体験の記憶としての「エピソード記憶」がある。最後の「エピソード記憶」をわれわれはふつう「記憶」と呼んでいるが、つまり、過去の特定の場面の情景や体感を思い出すものである。

 実はこの三つはそれぞれ解剖学的に異なる部位に保存されているのだが、ではエピソード記憶はどこにあるかというと、側頭葉である。しかし、それはコンピュータがデータを保存するように「ひとまとまり」のものがどこかにそのまま記録されるのではない。脳はそれをさまざまな要素に分けて、バラバラに蓄えているのである。だから「過去を思い出す」と言うより、実際は思い出すたびに新しく「過去を作っている」のである。

 これは、似たものとして例えばわれわれが眼でものを「見る」時のメカニズムを考えるとわかりやすいだろう。「眼でものを見る」時、実際には「脳で見ているのである」とよく言われるが、それはまさに、眼は写真や動画のように全体をそのまま写し取っているのではないからである。そこでは、見たものの色や形、大きさ、動きなどはそれぞれバラバラに認識され、全体像は脳で再び統合されて作りだされているのである。

 同様に、「過去」を思い出すときにも、バラバラになって蓄えられていたものが「思い出す」段階で再統合される。つまり、「過去」は思い出すごとにその場で作られているのである。それなら「過去」は、実は「現在」に属することになるだろう(だから「過去は完全には思い出せない」というのはある意味比喩で、実際にはその瞬間の自分にとっては正しく思い出しているのである)。ともかく、脳にとっては「現在」入ってきた情報と「過去」つまり記憶から来た情報は区別されずに、むしろ常に統合されている。

 

 それなら、言ってみればわれわれは「現在」に「過去」を、あるいは「過去」に「現在」を挿入できることになるが、人間が行う情報処理におけるこうした入れ子構造は「再帰性」と呼ばれるもので、実はこの能力を持つことこそ、おそらくは人間が「時間」という観念を築き上げた理由なのである。あるいは「未来」を「思い描く」のも、人間だけが「フィクション」という発想を持つのも、すべて同じメカニズムで説明可能である。つまり、組み合わせによっては何でも作り出せるのであり、何と呼ぶかというだけの違いなのである。

 したがって「過去」も「未来」も「虚構」も「現在」のうちにあることになるが、つまりそこでは、「時間」は流れているのではなく、ある意味で「すべて現在というこの瞬間に同時に存在している」と言えるのだ。これは、古くはアビダルマ仏教の考え方にもあるが、前回少しふれたように科学の世界でも20世紀の相対論以降は共有されてきている。というのも、「時空」つまり時間と空間が不可分のものであることがわかれば、実は「時間」は様々な側面で「空間」と同じように捉えられることになるからである。

 例えば、三次元の空間上の位置を座標で表現するのと同じように、時間を新たな一次元として同じく座標で表現することができる。そして、それなら全体が先にあるということにもなるのである。空間で考えるとわかりやすいが、例えば現在いる地点から1キロ離れた地点に移動するとすると、行くためにはその場所がすでに存在していなければならない。それと同じく、1時間後の未来に移動するならそこはすでにあるはずなのである。要は時間も「どの一点にいるか」という座標上の違いなのであって、あらゆる点は「現在」において「同時に存在している」と言えるのである。

 

 いずれにしても、さまざまな考え方をふまえれば、「流れる時間」というのは少なくとも何らかの意味ではフィクションであることになるだろう。まだまだ考えられることは山ほどあるが、ともかく文化的にも科学的にも一般的にも主流であったような「一方的に流れる時間」というのは、現代では科学的にも哲学的にも、あるいははるかに以前に始まった仏教思想においても、斥けられているのである。今だからこそ言えることだが、「時間」というのは、過去から未来に一方的に流れる、そんなに単純なものではなかったのだ。

 

仏教は宇宙をどう見たか―アビダルマ仏教の科学的世界観 (DOJIN選書)

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