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フリー哲学者ネコナガのブログ

人間にまつわること、哲学や科学、宗教、社会の問題、生き方のことなど書いています。基本的にエッセイです。

読書技術の進化史(1)音読から黙読へ

 「読書」を語るのに切り口はいろいろあるが、ここでは「本を読む」という行為について考えてみたい。

 

 「本を読む」ときに何が起こっているかと言えば、文字言語を順を追って認識していくことによって、「本」というひとまとまりの形で表現されている「内容」を認識することであろう。つまりは文字を読んで何かを認識する。したがってそこで起こるのは「文字」という媒体を通しているとは言え、内容としての本と読者の直接的な関係である。だから「本を読む」という行為は、現代ではふつう「一人でやる」ものである。

 もっとも、黙読が広く「ふつう」のこととなったのは10世紀ごろのことだとされているから、読書の歴史において黙読の歴史がいちばん長いのかは定かではない。アウグスティヌスの『告白』には、アンブロシウス(4世紀に生きた人である)が一人で「声を出さずに」本を読んでいる様子が出てくるが、「ところで彼が読書していたときには、その目はページを追い、心は意味をさぐっていましたが、声と舌とは休んでいました」とあり、わざわざ書き記すということはそれだけ珍しかったのであろう。

 では古くはどうやって読んでいたかと言えば「音読」であるが、ギリシアやローマにおいては韻文でも散文でも、高らかに声をあげて読むのがふつうであったという。もっとも、ある時期に転換が起きたというよりは、おそらく様々な読書法はそれぞれ長い間共存していたのであろう。アウグスティヌスも、アンブロシウスは声が枯れやすいから喉を守るために黙読なのだと推測しているから、理由があれば黙読もありえなかったわけではないとみえる。

 それなら現代において黙読があまりにも「ふつう」なのは、単に書物が希少なものではなくなったことと、個人主義が進んだ結果かもしれない。音読には、何より周りの人も内容を共有できるという実践的な側面があるが、そのように集団の論理が強ければ個人的行為としての「黙読」は成立しづらいであろう。日本でも明治初期までは音読が主流であったというが、黙読する者は「何を読んでいるのかわからないため」気味悪がられたのだそうである。

 

 いずれにしても、一口に「本を読む」といっても様々なやり方があるということである。それなら、ある意味でわれわれは、全く違ういくつかのことを「読書」と呼んでいることになる。なぜなら、手段が違えば認識の仕方も違うからである。いちばん単純に言っても、音読は聴覚情報であり、黙読はもっぱら視覚情報であるから、認識方法としては明らかに異なるであろう。

 もっとも、音読は「見たものを」「読んでから」「声に出している」のだから、黙読より一手間多いのではないかと思うかもしれない。しかし、「黙読」が主流ではないところでは、実は「見ただけでは読めなかった」可能性もあるのである。なぜなら、これは言わば技術の問題で、経験をつまなければできないことだからである。言いかえれば、音読文化では見た文字を音に変換していただけで、聴覚言語として認識するまでは「意味はわからなかった」かもしれないのである。

 つまりそこでは、本を読んでいたのではなく、本を「聴いて」いたかもしれないことになる。したがって人の話を聴くのと同じ認識方法ということになるが、それならむしろ、「本」を通すことによって一手間加わっているであろう。実際、プラトンなどは、本に書かれていることは「イデア界」を映し出したものとしての「現実世界」に現れたものを「さらに映し出した」ものだから、言わば「二重に間違ったもの」とみているようである。そこでは、本は崇拝されるどころか、一段低いものとみられている。

 

 このことは現代における失語症の例などからもわかるが、要するに、一口に「言語がわかる」といっても、読んで意味を理解するのと聴いて意味を理解するのはまったく別の能力なのである。それなら、それぞれに訓練が必要だということだから、読んだだけで意味がわかる訓練を積んでいなければ、音でないと意味が伝わらない状態があることは容易に想像されるであろう。

 あるいは「手話」を例にあげるとわかりやすいかもしれないが、あなたがとくに手話の訓練を積んでいなければ、手話で話しかけられても、手や顔の動きは見えるかもしれないが、「意味」はわからないであろう。そこでたとえば変換マニュアルが手元にあったとしても、あなたはもっぱら自分が理解できる言語表現に変換して理解するだけであり、手話表現を直接的に理解しているわけではない。これは言語間での「翻訳」についても同じである。

 

 いずれにしても、音読と黙読は同じ「読書」といってもまったく異なる技術であり、それは表面的な違いではなく根本的な情報処理の仕方の違いなのである。したがって現代において「黙読」があまりにも主流であることに鑑みれば、ある意味で読書の世界には、音読から黙読への文化的な「進化」があったと言えるかもしれないのである。

 

告白 I (中公文庫)

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