フリー哲学者ネコナガのブログ

人間にまつわること、哲学や科学、宗教、社会の問題、生き方のことなど書いています。基本的にエッセイです。

自動車の「社会的費用」とは─コストは当事者だけが負担するわけではない

 ゴールデンウィークになるといつも考えてしまうのは、やはり交通量とそのありさまである。人だけでなく、やたらに車が増える。鉄道やバスなら乗っている人が増えるだけだが、車の場合はそれ自体が増えるから道路がすぐにいっぱいになる。ふと思いつく限りでは、コンピュータと自動車は、20世紀に建物の中と外の景観を一変させた第一位であろう。もっとも、コンピュータは自動車にものっているが、自動車の役割は物理的なわれわれの身体を運ぶことだから、コンピュータではすまされない。

 いずれにしても、コンピュータと違って自動車が問題なのは、端的に言って物理的に場所をとるからである。とにかく多くの土地がとられる。まず、最初に工場や自動車そのものが増えるし、増えた分の駐車場も確保されねばならない。一方で走るには道路の建設・整備が必要であるし、ガソリンスタンドその他、自動車が増えたがゆえに占められた土地は意識してみると相当広い。

 それならそれで、一方で車を使えば得られることは多いのだが、一方で車を使わない人にとっては迷惑だけが大きい。そもそも、歩行者はふつうに道を歩くことができなくなる。日々、道を歩くだけで多くの排ガスを吸いこまねばならないし(これはもっぱらタバコに責任転嫁されてきた歴史がある)、事故にあう危険性も高まれば、信号で歩き方まで統制される。あるいは平地面積の狭い日本で、通り道を真っ黒に埋めると夏が暑くてしょうがないし、騒音被害にも悩まされることになる。

 

 もっとも、そもそも「文明」とはエントロピー増大に抗うように自然を操作することであり、何かを意図的に一方に傾けることで、局所的な利便性を手に入れることであるから、手を加えれば加えるほど、外部に負の影響をはきだすのはある意味当然である。しかし、自動車の場合は上のように生活環境に直接的に影響する形で被害が出るから、構造が見通しやすい。

 こういうことを「外部不経済」とか「社会的費用」という概念で早くから指摘していたのは去年9月に亡くなられた宇沢弘文氏であるが、要するにそこでは、自動車を利用する人の便益を確保するために、自動車を利用しない人までもが対価を支払わされているのである。経済学が「経済学の想定する世界」しか見なくなっていたころ、言わば「現実を見よ」「価値観をはっきりさせよ」と説いたのが宇沢氏の思想であるが、自動車の支配する異様な光景をみるといつも、宇沢氏の『自動車の社会的費用』を思い出す。

 

自動車の社会的費用 (岩波新書 青版 B-47)

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経済学は人びとを幸福にできるか

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