フリー哲学者ネコナガのブログ

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「宗教」はなぜ存在するのか(2)「意味を求める」

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 前回の続きである。宗教が存在し続けてきた理由の一つは、「物事に説明を与える機能を持っているから」という視点で考えているところであった。簡単にまとめると、歴史的には、神話―民族宗教的な説明で覆いきれないものが出てきたところを、哲学やキリスト教(普遍宗教)という高次の説明が登場したと書いた。

 

 もっともこれはあくまでも西洋での話で、哲学あるいはそれに類するものの誕生、つまり集団に固有の慣習や伝統の問いなおしは、古代ギリシアのみならず、一方でたとえばインドでは釈迦、中国では孔子を中心として各地で起こっている。しかし、ここで主に西洋の流れを追っているのは、言わばそこでの歴史を大きな実験としてみることで、論理的な整理が容易にできるからである。西洋の特異性は、キリスト教の論理の流入が大々的に起こり、異なる論理の対立が早くから表立って生じたことにある。

 結論から言えば、多数派という意味では宗教の論理が勝ったかに見える。よく知られているように、キリスト教が広まるとともに哲学は脇に追いやられることになる。そこでは、キリスト教の論理と矛盾しない論理だけが残され、あるいはキリスト教によって先に答えが与えられているところに、論理的な根拠づけとして哲学が「利用される」から、その意味ではここで哲学は宗教に従属している。つまり、「説明責任」はもっぱら宗教によって担われる。

 もっとも、西洋文化(当初はローマ文化)と同化する形に次第に変形していたキリスト教は、その後キリスト教の論理というよりは「教会」の論理となり、したがって大まかに言って西洋では、教会の論理によって「それ以上」を問うことが抑圧されていたと言える。しかし、人間が説明を求める存在であるならば、こうした言わば「無理」をしている状態はいずれ崩れることになるであろう。ここで「説明を求める欲求」が満たされるには教会の絶対性が不可欠であるから、次第にそれでは満足しない人々もあらわれるであろう。

 実際、西洋では、アラビアやペルシアで継承されていたギリシア哲学をルネッサンス期に逆輸入することで、哲学の復興が起こり始める。一方でこの時期にこの世界を自発的に操作するような「技術」への関心とともに「科学」の論理も台頭してくるが、科学の方はここでの欲求を満たすものではなかったと言えるであろう。なぜなら、科学は「どのように」を扱うものであり、「なぜ」については答えてくれないからである。

 たとえば、石を一定の高さから手放すと地面に向かって落ちていくが、科学ではこれは、重力があるからだ、と説明される。確かにそうした力を想定すれば、似たようなあらゆる現象に説明がつく。しかし、よく言われるようにそれは「how」についての説明であり、「why」については何も語っていない。つまり、人によっては、本当に知りたいのは「その力がどのように作用するか」ではなく、「なぜそんな力が存在するのか」なのである。 

 もっともここで、一口に「説明を求める」とはいっても、言わば便宜的、実用的な説明では満足できない場合があることがわかる。言いかえれば、結局のところ人間は「説明を求める」にとどまらず「意味を求める」ということであろう。これを担うのは、その後の歴史を見てもやはり哲学や宗教である。したがって、教会の論理とは別に、哲学は哲学で復興したが、一方でいわゆる宗教改革とともにキリスト教の論理も回復されることになる。そこでは、教会という中間地点を通さずに神の世界との対話が可能になることで、言わば個人それぞれの次元でより真摯な探求が可能となるのである。

 このように整理してみれば、よく言われる「科学とキリスト教の対立」というのは、歴史的に見ればむしろ「科学と教会の対立」だと言える。科学と宗教にはつまり、それぞれの持ち分があるからである。実際に、歴史に残る科学者は敬虔な信徒であることしばしばである。それは、一面で「科学」が神学や諸芸術と同じく「神がつくったこの世界の素晴らしさを解明・表現する」ということで始まったとみることもできるということであろう。つまり、科学と宗教の論理は場合によっては矛盾するが、場合によっては別に矛盾しないのである。だから個人において共存することもある。

 

 さて、収拾がつかなくなりそうなのでそろそろまとめておくと、ここでの話では、「意味を求める」欲求を満たすのが「哲学」と「宗教」だと書いた。しかし、考えてみればそれは文学でもよく、あるいは友人の放った一言でもよく、あるいはコーチや心理カウンセラーや精神科医や占い師との対話から見出すものでもよく、つまりは本人が自分で納得すればなんでもよいのである。

 

 それゆえに、言ってしまえば「宗教がなぜ存在するのか」という問いの答えには、実は固有のものはないとも言える。つまり、本来的には「意味を求める」という人間の欲求を満たすようないろいろある方法のうち、状況によって「たまたま宗教が選ばれることがある」というだけの話かもしれないのである。それなら、よいか悪いかは別として、大御所である「宗教」が生き残らないはずがないとも言えるのではないか。


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