フリー哲学者ネコナガのブログ

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「宗教」はなぜ存在するのか(1)神話、哲学、宗教

 なぜ、宗教というものが存在するのか。

 これは、答えられる疑問であろうか。あるいは、存在するから存在するとしか言いようがないのではないか。むしろ、あらゆる物事がなぜ存在するのかを説明するのが宗教の仕事であるとも言えるから、これが袋小路に入ってしまうのは言わば当然かもしれない。宗教は、宗教自体の存在理由を教えてくれないのである。 

 しかし、存在し続けているのが事実であれば、やはり何らかの説明が欲しい。人は、得体の知れないものを怖がる。得体が知れないから怖がるのか、怖がるから得体が知れないのか、そのあたりは定かではないが、ともかく何か説明が欲しいのである。ともすると、われわれがこうして「説明を求める」性質を持っているから、宗教は存在してきたのではないか。

 

 一般に言う「宗教」は、前回と前々回でみたような狭義での「宗教」とは違って、とても曖昧な言葉である。考えようによっては、人間生活のほとんどが「宗教的」なものであると説明されうる。特に、古代や有史以前を語る際にはかなりの物事が「宗教」の観点から説明されがちである。時に数万年前の洞窟壁画やネアンデルタール人の埋葬までもが宗教的側面から説明される。

 したがって、現代の目で歴史を解釈するような方法で「宗教」の機能を考えようとするなら、他の大きな概念と比較してみるのがよいと思われる。あまりさかのぼるとわけがわからなくなるから、ここではわれわれに近いところのものとして、「神話」からはじめてみることにする。神話は当初はもっぱら語り継がれるものであったが、のちに書き残されたおかげでわれわれにも知られるところのものとなった。

 

 「神話」という言葉は、翻訳語であるが、元をたどればギリシア語の「ミュートス」に由来する。ミュートスは「言葉」の意味だが、よく知られている「ロゴス」とは違って「語ることによって事実となる」ような場合の「言葉」を指す。つまり、文字通り「はじまり」である。そこから体系が生まれる。何であれ一つの体系を作るには、どこかに出発点を置かねばならない。これは、たとえば数学では公理と呼ばれるものである。公理なくして定理はない。

 「神話」は時代や場所によって様々あるが、どれも基本的には自らが所属する集団のはじまりを説明するものが含まれている。学問的には「創世神話」と「英雄神話」という区別があるが、およそどんな集団が持つ神話体系でも、この二つのタイプが含まれているのである。前者はこの世界のはじまりを語るものであり、後者は人間に特定の何か(たとえば火の使用や農耕技術など)を授ける想像上の人物が登場するものである。

 この二つは便宜的な区分だが、どちらにせよ「現在がなぜこのようになっているのか」についての「説明を与える」ものである。つまり、自然界や文化、民族の始まりを説明することで、それを事実であると信じていれば、「現在」を理解することが可能になる。「なぜこれはこうなのか」と問えば、「昔こういうことがあったからである」と理解される。つまり、この宇宙の認識がカオス(混沌)からコスモス(秩序)に変わるのである。神話は「認識」を規定する点であらゆる物事の創造に必要であり、これがなければ「何かを前に進める」ことがそもそもできないのである。

 しかし、「神話」はもともと、言わば「狭い範囲のコミュニティ」でのみ共有されるものである。それでこそ上のような機能を持ちうる。したがって二つ以上の異なる「神話」が出会った時、論理的に言って何らかの認知的な混乱が生じることになる。つまり、説明を与えられるべきレベルが変わるのである。しばしば言われることは、この時誕生したのが「哲学」というものであった。あるいはこれを古代ギリシアにはじまるとするならば、数学も同じであろう(数学については古代ギリシアも外から多くを学んでいるが、この意味での存在意義としては哲学と変わりがない)。

 つまり、個別的なものではなく、「普遍的な」「真理」を求めるのである。そこではもはや、一民族だけに共有されるような「便宜的な」説明は崩れてしまう。それゆえに、より一般的、抽象的な説明がなければ気が済まない。もっともこれをやり始めたのは一部の人々だけで、昔ながらの説明で満足した人々もいる。やり始めた方は変人扱いされ、あまりにも知ることを求めるので「哲学者」(智を愛するもの)と呼ばれることになる。古代ギリシアは多神教の世界であったが、そうした慣習を疑ってかかったソクラテスが集団から排斥されたのは有名な話である。

 したがって、人間が「説明を求める」ものであるとするならば、この時点でその欲求の「満たし方」は二つに分かれたことになる。一つは比較的狭い範囲で自らの所属する集団に特有の「ストーリーを受け入れる」ことであり、もう一つは比較的広い範囲を視野に入れて、そのような範囲でも矛盾しない説明を求めることである。こちらは本人が納得するまで終わりが来ない。だから哲学者はときどき発狂するのである。

 後者は「哲学」であるが、前者、つまり「神話」に根差した世界理解に根差した集団は、あとから整理されたところによると、「民族宗教」を信じている人々、ということになる。この時点ではつまり、「民族宗教」だけが「宗教」である。そして少なくとも哲学は宗教と区別されることになった。しかし、「民族宗教」とわざわざ区別するからには、民族宗教ではない宗教も存在することになる。

 つまり、「普遍宗教」である。一方でナザレのイエスを教祖としてパウロが体系化した「キリスト教」が誕生する。キリスト教は民族宗教であるユダヤ教から派生したものだが(イエス自身はユダヤ教徒である)、一方で哲学が行ったような自然界との真摯な対話ではなく、「神の世界」との真摯な対話から個別的なものの矛盾を見出し、普遍性を得るような論理をイエスが見出すのである。それは論理的に言って普遍的に広まるものであり、実際にそれなりに広まることで、民族宗教の存在感は薄れてゆく。したがってここに「哲学」と「キリスト教」という二つの世界理解の方法が整理される。

 

 唐突だが、続きは次回、である。

 

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