フリー哲学者ネコナガのブログ

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義務教育と大学の役割─日本の大学で何をすべきか

 大学はどこへ行くのか。

 大学について考える前に、「義務教育」について考えてみたい。義務教育とは何か。

 一般によく誤解されているのは、「国民には教育を受ける義務がある」というものである。しかし、これでは話が逆である。教育を受けるのは国民の権利である。成文憲法にもそうあるではないか。それゆえに国家は、種々の法律を作り、国民がこの権利を行使できる環境を整えなければならない。日本国憲法の第26条1項には「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する」とある。

 そもそも、憲法とは国家に先立つものであり、それに基づいて国家をデザインするところの、言わば国民から国家への命令であるから、実態は別として、論理的には国家から国民に義務が課せられるということはありえない(このことがわかっていれば、自民党の憲法改正案がいかに変であるかはすぐにわかる)。憲法を尊重・擁護する義務があるのは国家の方である(第99条「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」)。これは近代国家の大原則である。 

 もっとも、義務教育が「教育を受けさせる義務」と誤解されるのには、おそらく理由がある。第26条2項には、「すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負う」とあるから、おそらく親が子に教育を「受けさせねばならない」と国家に言われていると勘違いしているのであろう。否、言っているのは国民である。要は、子どもはまだ判断力や実行能力がなく、権利を十分に行使できないから、大人になるまでは親が導くということである。そこには「最低でも親は子の教育に責任を持つべきである」という価値観が一方で反映されているのであり、矛盾は生じていない。

 

 それならまさに、義務教育の機能は「子どもを大人にすること」であり、上のような憲法理解も含めて「国民として必要なセンス」を当然のものとして身につけることであろう。教育基本法をみると、第5条2項には「義務教育として行われる普通教育は、各個人の有する能力を伸ばしつつ社会において自立的に生きる基礎を培い、また、国家及び社会の形成者として必要とされる基本的な資質を養うことを目的として行われるものとする」とある。

 普通教育は学校教育法第16条で「九年」とあり、「義務教育として行われる普通教育は」とあるので、実質的に義務教育が9年とみてよいであろう。事実上日本では中学卒業までである。しかし、義務教育の目的が上のようなものであるならば、現今の状況において、中学まででこれが達成されるかはきわめて疑わしいであろう。実際に、私は中卒の人を卑下する気はまったくないが、中卒の人「だけで」社会が構成されている状況を考えてみれば、国として成り立たないのは明らかである。

 実際上は大多数の人が高校までは卒業するとは言え、こうしたことに鑑みて、現代社会では大学までいかないと最低レベルが担保できないと主張する人もいる。私もそれには肯定的である。ただし、ここでの「大学まで」というのはあくまでも全体的に大学が変質していることも踏まえた上でのことでもあり、問題はそもそも大学のレベルが落ちていること、そして大学の存在意義が変化していることにある。つまり、研究・教育の追及に専念できなくなったのである。

 

 一時期までのように、あるいはヨーロッパで伝統的なように、「国のリーダーとなる人々」と「社会を構成する人々」が高校あたりですでに分かれて、お互いがお互いを尊敬し、役割を自覚し、それぞれの役目を果たすのであればまだよい。それが最善かどうかは別として、少なくとも伝統的に存在する一つの方法である。日本でも、19世紀までの旧帝大や旧制高校はこのモデルのもとにあった。しかし、20世紀になると日本の大学は、大衆化時代に親和的なアメリカ型の制度を中途半端に受け入れるようになる。これには、いくつかのお互いに切り離せない変化が関係しているであろう。

 まず、大学生人口の増大である。日本における大学進学率をみてみると、半世紀前、1960年には8.2%だったのが、ここ数年では約50%を推移している。つまり、以前は頭だけ大学に入っていたのが、今では脚だけ入るのである。そういう意味ではない。つまりは大学に入る方が多数派になりつつある。この根本的な原因は、一つには日本がそれだけ豊かになったということであろう。つまり、大学生人口がそれだけ増えても社会がまわる。一方でそれにともなって、90年代からの大学改革に象徴されるように、大学制度がグローバル時代に合わせて変化したことも大きな原因である。そこでは、端的に言って大学がサービス業と化してしまったのである。

 

 アメリカでは、大学は広く市民に門戸を開いている。しかし、その裏には理念がある。それは、文字通り「アメリカ人をつくること」である。つまり国民の養成である。これは、伝統なきところではじまり、多様な文化的背景を持つ人々によって担われる民主主義国アメリカとしては、言わば当然のことである。そこでは、大学の役割は「価値観を相対化すること」であり、具体的には批判的思考力の育成である。多様な価値観を知った上で社会の成員となる。あるいは「国家が暴走しないように監視する」という姿勢も一方でアメリカの伝統である。

 対して日本では、特定の理念なくしてアメリカ型の制度だけを採り入れてしまったために、言わば大学の本義が骨抜きにされてしまった。現今の日本政府が「対応」という場合、それは何かに備えて「やった」ではなく、何もしないでいるうちに時代の潮流にのみこまれた、つまり外から「やらされた」ことを意味する。ここではつまり、競争原理にさらされたということであり、それにともなって大学に資本主義の論理が入ってしまったのである。

 つまり、私立大学は学生数の増大をめざし、国公立大学では、教員が予算獲得に奔走することになる。資本先行、社会のニーズで動き、理念は後付けである。いったん資本主義の論理が入ると、もう抜け出すことはできないのである。入学させることが目的なら、レベルは落とし、誰であれどこかに入れる。あるいは、あまり知られていないかもしれないが、今の大学には学生による授業評価アンケートというものがある。これは義務付けられており、人事・方針決定に影響している。専任教員ならまだしも、講師などは学生の評判が悪ければすぐにクビである。つまり、代わりはいくらでもいる。これが一体ビジネスの論理でなくて何であるのか。

 

 いずれにしても、日本では「国家を担う人を育てる」という大学の存在意義は薄れてしまっている。元来、大学の役割は、社会と一定の距離をとりつつ、既存の価値観を相対化するための土壌を担保することにある。ふたたびアメリカをみてみれば、それゆえに専門を持つのは大学院からである。高校を出たばかりで専門などまだ早い、ということであろう。学部では、リベラル・アーツ、つまり特定の絞り込みを行わずにあらゆることを学ぶ。日本ではこれは「一般教養」と訳され、もっぱら1年・2年で行う一段低いものとみられているが(実際、一段低い内容で行われている)、基本的にアメリカの大学では、4年間これをやるのである。イメージとしては、日本で学部時代にやることを全学部にわたってやるとみればよいであろう。

 なぜこんなことをやるかというと、一つには自分が人生で何をやるのかを10代の経験と知識では判断できないと考えるからである。だから4年間みっちり勉強してあらゆる物事をまずは知る。あるいはアメリカに限らず諸外国では、大学卒業後にたとえば数年間バックパッカーをやって視野を広げることも少なくない。社会においてどういう役割を担うかは、それから決めるのである。つまり、大学生活は目的志向ではありえない。寮に入り、生活はキャンパス内で完結し、自分を磨くためにひたすら勉強する。

 

 あるいはリーダーを育てるということで言えば、「価値観を相対化できるようになる」というのは、政治家に求められる最低限の資質である。そこでは、新しい価値自体を作ることが求められる。マックス・ウェーバーは「最良の官僚は最悪の政治家である」と言ったが、官僚は現今の体制のもとで最適化を図ることが求められるのに対して、政治家は現今の国家・社会を相対化し、諸制度や、場合によっては価値観そのものを取り替えなければならない。官僚の専門学校と揶揄される東京大学が、本当の意味での国のリーダーを輩出できないのは当然であろう。

 日本では、大学はむしろ社会に奉仕・従属する存在となっている。つまり、単に大卒という肩書きだけを担保し、大学時代の前半はコミュニケーションスキルを身につけ、後半は就職のことだけを考える。要は、社会に入る前の準備期間であり、求められていることは結局のところ既存の価値観への適応なのである。つまり、もっぱら官僚型である。そこでは、初めから終わりまで社会的な価値観のもとにあるから、その意味では、日本ではすでに「大学」は死んでいるのである。それゆえに、近年では優秀な学生は海外の大学へ行ってしまう(ただし、これも目的志向であることが少なくない)。

 

 タイム誌等が発表している世界大学ランキングでは、日本の大学で目に入る範囲にあるのはいつも東京大学、京都大学くらいである。ただしこうしたランキングには国家を構成するポストを担う人をどれだけ輩出しているかというのも評価に含まれているから、そうしたポストがもっぱら東京大学から出る日本の状況を鑑みれば、言わば東京大学は「不当に」高く評価されている。それなら大学の役割である研究・教育では事実上、日本の大学は相手にされていないのである。

 ランキングを脇に置いてもおそらく、東大・京大くらいを除けば、諸外国からの認識は「日本に他にも大学があるんですか」というほどが実情であろう。知り合いのヨーロッパの大学教授にきいた話では、日本ではトップレベルとみなされている関東の某有名私立大学がヨーロッパで記念式典を行ったところ、当地での出席者はなんと4人であったという。日本の大学についての日本と世界の認識のギャップを、かなり反映しているであろう。

 

 さて、長くなってしまったが、今の日本の大学をどうみるか。あるいは大学生は何をすべきなのか。いずれにしても、大学側が時代に流されるままとなり、資本主義の論理を採り入れてしまった今では、以前の存在意義を取り戻すことは不可能であろう。もっともこれは、大学ではなく政府と国民の責任でもある。

 それなら、大学が担うべきこと、あるいは大学生が行うべき本当に最低限のことはつまり、「資本主義だけは相対化できるようになる」ことであろう。社会のあらゆる領域が資本主義に浸され、大学までもがそうなっている現代では、せめて世界中でいま最も強い枠組みだけは客観的に認識できなければ話にならない。

 これは、資本主義が好きか嫌いかということとは別の問題である。実際問題として逃れられないのだから、重要なことはつまり、「現代社会がいかに徹底的にそうであるか」を知ることである。マルクスが『資本論』を書いたのもそれが理由である。マルクスは資本主義を拒否したが、それゆえにこそ敵である資本主義を徹底的に調べつくした。何であれ、現状を徹底的に知らなければ変化を志向することはできないということであろう。社会にせよ個人にせよ、どのように生きるかは自ら決める必要があり、それなら大前提として今どこにいるのかを認識する必要がある。だから人は学ぶのである。

 それなら、今の日本の大学で「まともな大学生活」を送るには、言ってみれば「大学に適応しない大学生であること」が必要であると言えるであろう。もちろんこれは逆説的な言い方だが、言葉にしろと言われたらこういう表現になる。それは大学生を逸脱しろという意味ではなく、マイノリティであっても大学生の本分をつらぬけ、ということである。つまり、現代社会に対して「冷める」ことではなく、現代社会を徹底的に理解した上で、何を取るかを自分で決めることである。

 結果的に新入生へのメッセージみたいになってしまったが、大学生は、自分の頭で考えたこと、自分の身体でわかったことにしか耳を傾けてはいけない、ということを忘れないでいるべきだ。そして、信頼すべき友人、尊敬すべき先生に出会ったら、その関係を大事にしよう。

 

 せっかくなので以下、新入生におすすめの本。学びなおしたい人も。

大学生になるきみへ―知的空間入門 (岩波ジュニア新書 (452))

大学生になるきみへ―知的空間入門 (岩波ジュニア新書 (452))

 
日本人のための憲法原論

日本人のための憲法原論

 
哲学大図鑑

哲学大図鑑

 
人類が知っていることすべての短い歴史(上) (新潮文庫)

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人類が知っていることすべての短い歴史(下) (新潮文庫)

人類が知っていることすべての短い歴史(下) (新潮文庫)

 
チェ・ゲバラ伝 増補版 (文春文庫)

チェ・ゲバラ伝 増補版 (文春文庫)

 
真の独立への道―ヒンド・スワラージ (岩波文庫)

真の独立への道―ヒンド・スワラージ (岩波文庫)

 
ブッダのことば―スッタニパータ (岩波文庫)

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