フリー哲学者ネコナガのブログ

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「予言」とは何か

 「予言」とは何か。

 

 予言について日本でよく言われることは、「予言と預言を混同してはならない」である。「予言」(あらかじめ言う)とは言わばまだ起こっていないことをすでに起こったかのように語ることで、当たったかはずれたかが問題とされる。一方で「預言」(預かりを言う)とは神の言葉だから、信じるものにとっては無条件で真である。つまり「預言」の方は「預言者」(神の言葉を媒介する人)という概念を持つ宗教の論理である。

 だから日本では歴史的に言ってキリスト教の論理となるのだが、島田裕巳著『予言の日本史』によると、予言と預言を区別するのは日本のキリスト教だけであるという。これはおそらく、日本にとっては明らかに異質なものとして受容されてきたキリスト教が、その特異性を強調するために用いる論理であろう。つまり、「なんだかわけのわからないものではなく、明白に神からのメッセージである」。

 なぜこれほど「預言」にこだわるのかは、啓示宗教において預言者がもつ役割を考えればわかる。端的に言って、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教が崇めている「神」は同じ神である。唯一神なのだから定義上そうなるが、ヤハウェ(エホバ)やアッラーは神の名前ではなく、それぞれの言語で「神」をあらわす一般名詞である。他に神はいないのだから固有名は必要なく、ただ神と呼べばよいのである(唯一神であることを強調するときは頭を大文字にしたり定冠詞をつける)。

 そこでこれらの宗教を分かつものは、預言者と救世主の解釈である。古い方から言えば、ユダヤ教ではモーセを最も重要な預言者であるとみるが、メシア(救世主)はまだ現れていないとするのに対して、キリスト教では預言者イエスがメシア(キリスト)として現れたとする。だからキリスト教ではイエスを信ずれば救われる。イスラム教は、イエスを偉大な預言者の一人としては認めるが、メシアとしては認めない。一方でムハンマドが最後にして最高の預言者として現れたとする。

 つまり、預言者の存在は啓示宗教にとってアイデンティティそのものなのである。それなら外から見ればやたらにこだわるように見えるのも無理はないが、逆に言えばそれが決定的な意味を持つ。だから、日本ではあまり意識されていないが、イエスのことをキリストと呼んだりイエス・キリストと呼んだりするのは、自分がキリスト教徒であると言うこととほとんど同じ意味を持つ。これについては「旧約聖書/新約聖書」も同じで、これはキリスト教徒的な呼び方である。

 いずれにしても、「預言」という言葉を使うなら、それを発しているのが誰なのかということに伴って、そこに特定の宗教を信じている態度が表明されるのである。この区別が日本に特有のものであるならば、逆に、「預言者」がいる方がふつうであるところでは「予言」即「預言」だから、区別はわざわざ強調する必要がないのであろう。

 しかし、それでもたとえば日本でも「預言」に似たようなもの、つまり「予言」が存在していたのであれば、啓示宗教でなくとも「予言」には意味があることになる。それについて、前述の『予言の日本史』の内容をふまえながら以下に考えてみたい。

 

 島田は、「予言」があらわれているものとして古事記や万葉集の記述、弥勒菩薩信仰、宇佐八幡宮神託事件、安倍晴明、仏教における末法思想、キリシタンの終末思想、幕末の予言獣、諸新興宗教の勃興などをとりあげているが、その共通点は、それが近い未来であれ遠い未来であれ、「未来を語る言明=予言」が、それらを受容する時代背景とともに流行し、「当世の社会にものすごく影響を及ぼしている」ということである。

 実際、本書を読んで改めて考えてみると、政治の歴史は予言の歴史とも言えるくらいで、島田はだから池田勇人内閣の「所得倍増計画」も考察に含めているが、そう思えば「予言」と「マニフェスト」にいったい何の違いがあるのかと考えてしまう。どちらも未来における特定の状態を描写し、それを信じる人を作り出す。「予言」は、社会学に「予言の自己成就」という言葉があるように、それを信じた人の行動によって実際に社会がそのように変化するふしがあるから、単なる中立的な判断としての「未来予測」ではないのである。

 それなら、たとえばマルクス=エンゲルスの『共産党宣言』(コミュニスト・マニフェスト)などは典型的な「予言」である。共産主義社会は訪れなかったが、明らかにその後の政治をものすごく動かしている。これを「予言」と呼ぶのはもっぱら反対者側の態度であったが(そこでは宗教を一段低いものとみる態度が前提である)、それならやはり予言とマニフェストの違いを問い詰めたくなる気もする。しばしば「政」(まつりごと)の字から政治と祭りの関係が取り上げられるが、その意味では政治は今でも「宗教的」なのである。

 

 では、人間社会における「予言」の機能は何であるのか。上でみたことに鑑みて、ここでは予言と政治的意思決定の密接な関係を前提とする。

 古代において、「予言」が行われる際に用いられるのは、主に各種の占いである。日本で言えば、たとえば亀卜占いや太占があった。そこでは、動物の骨や甲羅を焼いてその「ひび割れ」の形をみる。こうした「占い」も含め、現代人にとっては「迷信」とみなされるものは、実はほとんどすべて同じような機能をもっていることがわかる。それは、未来のイメージをつくることである。

 未来はどこまでいっても不可知だから、これは科学的思考があってもなお必要とされる言わば「方針」であるが、裏から言えば「未来」は「現在」にとってこそ必要なのである。未来についてのイメージがなければ、「現在」における行動を選択する基準がない。それを与えるのは、言ってみれば「なんでもかまわない」のである。しかし、「何か」が必要とされる。その一つが占いであり、予言である。

 古代の日本ということで言えば、もう一つ挙げておくべきなのは「夢」の存在であろう。古典文学と夢は切り離せない。「予知夢」という言葉が今ではあるが、古代の人々にとっては夢はすべて「予知夢」であった。それは「現在」の行動の方針決定に不可欠なものである。西郷信綱『古代人と夢』によれば、古代人にとって夢とは「人間が神々と交わる回路であり、そこにあらわれるのは他界からの信号」である。そこでは、神の声を聴いて、人々はただ実行に移すだけである。

 

 このように言えば、「人間は古来、方針決定のために占いや神の声を使った」と思われるかもしれない。しかし、議論を呼んだジュリアン・ジェインズ『神々の沈黙―意識の誕生と文明の興亡』を読んでみると、もしかしたらこれは話が逆かもしれないのである。ジェインズは歴史学と心理学を織り交ぜながら独自の説を展開している。

 現代のわれわれは、理性によって意思決定を行っていると考えがちである。そして、それがふつうのことであると思っているから、「理性を十分に使わなかった時代では、迷信が使われていた」と考える。しかし、ジェインズの仮説では、ほんの数千年前までの人類は「もっぱら」神の声に盲目的にしたがっていたという。そこでは、神の声が用いられるというよりも、それしかないのである。

 一例としてあげられているのは、ホメロスの『イーリアス』である。本当はもっと古代が知りたいところだが、これをとりあげるのは、ある程度まとまった量の文字記録があるのはこのあたりからだからである。しかし、この時代になってすら、つまり文明が起こっていてすら、ジェインズにしたがえば、人々は未だ理性を持っていないのである。

 ジェインズによれば、『イーリアス』を分析すると、意識や精神にかかわる語がまったく登場しない。そこでは、あたかも人々は自動人形のようである。神の声を聴くと即それに従っている。自分の意思などないのではないか。心理学者のジェインズは、現代の症例とあわせて考えた結果、これについて「二分心」という発想にいたる。これはいわゆる右脳と左脳の区別だが、古代人はもっぱら右脳による情報処理を行っており、それを言わば「神の声」と認識していたとする。そこでは理性(左脳による情報処理)は意思決定に全く関与していないのである。否、「関与していない」のではなく、「そんなものはまだない」かもしれないのである。

 もしそうだとすると、「文明」がなぜ起こったのかにも説明がつくという。つまり、全員が顔見知りであるような範囲を超えて集団が大きくなると、「神の声」がお互いに通じなくなる。そこで、意思決定メカニズムが、個人の脳を超えて共有可能なように言わば外部に投影されるのである。これが政治共同体の起源である。ジェインズによればつまり、文明とは神の声に盲目的に従い続けるという行動様式の延長上に生じたものであり、「その後に」理性や意識が発生した。それなら「科学」も、ある意味ではその延長と考えられる。つまり、科学がないから迷信に従うのではなく、迷信の発展したものが科学かもしれないのである。

 

 ジェインズの説は壮大すぎて検証が難しく、賛否両論あるのだが、「理性だけでは意思決定はできない」というのは現代でも広く言われていることである。有名なものはアントニオ・ダマシオが『デカルトの誤り 情動、理性、人間の脳』で述べているものである。神経科学者のダマシオは、 意思決定には「情動」が不可欠であるという。

 ダマシオが根拠としているのは、脳損傷患者を対象とした研究である。たとえば、損傷前は知性が高かったと言われるある患者は、損傷の原因となっている腫瘍を切除する手術を受けると、決断が下せなくなってしまった。いわく、朝は身支度を整えられず、昼は何を食べようか決めているうちに夜になる。

 ダマシオは、患者が感情に乏しいことに気づいたのだが、調べてみると「情動のない世界に住んでいた」。そこから、情動は意思決定にあたって選択肢を絞り込むという重要な役割を果たしていると結論したのである。それなら、いずれにしても「情動的にコミットする何か」が人間には必要だということであろう。その意味では、宗教の側の論理として「科学も含めてあらゆる体系は宗教である」というのも一面でやはり筋は通っているのである。

 

 いずれにしても、人間は、未来を知りえないなりに何か方向付けが見いだせないと行動が決められないということであろう。その意味で人類にとって「予言」は、言わば必要不可欠なものである。社会においては政治がその役割を担うが、これは個人についても言えることであり、そこでは「どのように決めるにせよ」未来についての確定的なイメージが必要とされる。そうしないと現在の行動に確信が持てないのである。

 それゆえに、社会から明白なイメージが与えられない現在では、宗教や占いは魅力的なものとなる。もっとも、そうした人々はそれゆえに言わば「操作されやすい」から、場合によっては危険なものに関与することになる。これについては世界中からダーイシュに加わる人々の例をあげるまでもないであろう。あるいはオウム真理教があれほど信者を獲得したのも同じ理由である。

 一方で平和的な例を挙げれば、地縁血縁を離れて都市へやってくる人々の心のよりどころとして、新興宗教が世界中に興る。世界三大宗教も、もともとはすべて都市で興ったものである。その意味で宗教の持つもっとも大きな機能はやはり、「救済」なのであろう。

 

予言の日本史 (NHK出版新書)

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神々の沈黙―意識の誕生と文明の興亡

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デカルトの誤り 情動、理性、人間の脳 (ちくま学芸文庫)

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