フリー哲学者ネコナガのブログ

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『河鍋暁斎戯画集』と視覚文化

 岩波文庫所収の『河鍋暁斎戯画集』を読んだ。読むというよりみる本である。岩波文庫では美術モノは少ないから、このように文章がほとんどない本は珍しい。 

 河鍋暁斎は幕末―明治の浮世絵師だが、戯画を得意とした。幕末と言えば私は芳年だが、この時期のものはテクノロジーに頼っていない分、あるいは認識が情報化されていない分、想像力の豊かさでは群を抜いている。暁斎のものは幽霊画集でみていて興味はあったのだが、岩波文庫に入っていたのには驚いた。在庫は薄そうなので、みかけたら買っておくとよいかもしれない。

 

 日本では、暁斎のものも例にもれず、描かれたものがメインでも背景の一部として文字が入っていることが多い。おそらく、この点はやはり漫画文化なのであろう。今では漫画の文字は別にプリントされているが、伝統的には一体化していたものである。日常的な実感でも、文字はそのあたりを踊る存在であったかもしれない。

 

 こういうものをみる時に私がおすすめするのは、説明書きを一切読まないことである。本人が入れたものならまだしも、少なくとも他人が書いたものを読むと、見え方が固定されてしまってつまらない。美術館などで説明書きばかり読んでまわっている人がいるが、正しい見方があるという先入観にとりつかれているのか、テレビの見すぎでテロップがないと落ち着かないか、いずれにしても現物が目の前にあるのにそれを感じないのはどこかおかしい。

 

 さて、ここで歴史家の視点を持ち込んでみると、絵画資料には文字資料とは異なる性質が当然ながらある。それは人間の認知構造に根差したものである。

 一般に、視覚は言わば一息に全体をみる。言語の場合は文字にしろ発話にしろ、全体をみるために部分を追う必要があるが、視覚の場合は全体が先に見えるのである。だからそこに「全体」がないといけない。そこでは、ごまかしがきかないのである。

 たとえば人物が描かれるとすると、どんなに脇役的な存在であれ、その人物の着ている服がどんなものであるか、そしてその質感や色を、不可避的に表現せざるをえない。言語の場合には、注目していない事柄については何も言わなければいいが、絵画の場合は注目していないものについても注目していないなりに何かを描かねばならないのである。常に選択を迫られる。

 それなら、絵画においては細部に無意識の実感が出やすいということになる。たとえば人物がいたら多くの場合は手が描かれているであろうが、手が主題になることは少ないから、上の考えで言えば「迫られて」描いた部分である可能性は高い。そこでは本人が無意識に描くから、つまり「手とはこういうものだ」と思っているそのイメージが直接的にあらわれやすいのである。こうした「なんでもない」部分こそ本人のクセが現れやすい。それゆえに作者の特定に使われる。

 

 それなら、個人を超えて共有されるイメージもある。つまりは「時代のクセ」である。有名なのは、西洋における走る馬の例である。走っている馬が描かれるとき、ある時期まではもっとも「走っているらしい」瞬間として、馬の前足は前側に、後ろ足は後ろ側に伸びた形で描かれることが多かった。つまり、四本の足すべてが身体の外側を向いている。

 しかし、19世紀も後半になってカメラで連続写真が撮影できるようになり、実際に走る馬を撮ってみると、四本の足すべてが外側を向いている瞬間などないことがわかった。もっとも、これは走る動作を細かく考えてみれば当然のことで、人間でも片方の足が地面を蹴るときにはもう片方の足はすでに次の一歩の準備をしている。

 そこで画家たちは現実の馬に近い形で片方を曲げて描いたのだが、そうしたら今度はみている方が「自然ではない」と言い始めたのである。ここではつまり、現実には即していないが、描く方にもみる方にも共有されている無意識のイメージがあった。

 

 絵というのは思っている以上にいろいろなことがわかるものである。もっとも、とくにこんな考察に興味がなければ、自由に楽しめばよいであろう。絵の場合はみる方も見るだけで何かは見えるから、門戸が広い。地域的制約もない。視覚文化には「要約」もなければ「翻訳」もないのである。

 河鍋暁斎から全然はなれてしまったが、絵というのはつまり、見るしかないのである。

 

河鍋暁斎戯画集 (岩波文庫)

河鍋暁斎戯画集 (岩波文庫)

 

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