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フリー哲学者ネコナガのブログ

人間にまつわること、哲学や科学、宗教、社会の問題、生き方のことなど書いています。基本的にエッセイです。

「神秘体験」とは何か(3)自ら起こす場合

宗教とその周辺覚え書き

nekonaga.hatenablog.com

 

 宗教を考える延長上で「神秘体験」に注目しているが、前回と前々回ではそれぞれ「状況的に起こりやすい場合」と「体質として起こりやすい場合」をとりあげた。今回は、「自ら起こす」場合について考えてみたい。少しあやしくなってきた。

 

 宗教において神秘体験を自ら起こすというと、いわゆる「修行」というものがかかわってくるであろう。「修行」というともっぱら東洋的な語感であるが、ここでは何にせよ、「何らかの形で身体にはたらきかけることで、心理状態あるいは脳内状態を自発的に変化させること」を指すことにする。つまり、心と身体が一つであることを利用している。

 宗教的行為のほとんどは、もともとはその意味での修行である。これは、伝統宗教でも民族宗教でも、新興宗教でもかわりはない。その本来的な意味からずれて表面的なところだけが残ったとき、それは文化に取り込まれるのだとも言えるであろう。そもそも各宗教にある聖地の巡礼にしても、もともとは祈ったり拝んだりすることが目的というよりも、そこに行くまでの行程が修行であった。修行はすべて、特定の精神状態に行きつくための一連の手段であり、最後のところだけをやっても意味がないのである。

 

 修行は、必ずしも苦行ではないと言われる。しかし、苦しいかどうかは本人の感覚によるだろう。外から見てどんなに苦しそうでも、本人の中では至福体験であるかもしれないから、これを区別することにあまり意味はないと思われる。苦行でも行きすぎると死んでしまうであろうから(それだから死んでしまう人もいる)、いずれにしてもどこかの段階でいわゆる脳内麻薬が出ていることは間違いないと考えられる。たとえばエンドルフィンであればいわゆる「ランナーズハイ」と同じメカニズムである。身体に負荷がかかりすぎると、脳の方が「もういいでしょう」と言ってくる。

 あるいは運動を促すドーパミンや、危機状態において「fight or flight」(闘争か逃走か)の判断を迫るノルアドレナリンも、出すぎると「行き過ぎ」を止めて精神状態を安定させるために相応のセロトニンが出る。セロトニンが大量に出ているときはいわば「落ち着いて」気分がよくなるから、思い切り身体を使ったり頭を使ったり、危ない状態になればなるほど、相対的にその後の「心の平穏」も強くなるのである(自傷行為のメカニズムもこれである)。これが修行や至福体験と関係が深いことは容易に想像される。

 

 もっとも、宗教ではそうした心と身体のメカニズムについて明示されない場合が多い。というか、それを明らかにしていたら宗教にならない。多くは、ただ教義に則って何事かを行っていれば、いつしか自然に特定の状態が生じる。そこで生じるのはあくまでも「体感」であり、その意味付けを行うのは本人である。したがって、人間の性質として自然に起こると本人が知らなければ、何らかの超越的なものを感じるほかなくなる。そこでは言わば、宗教は頭よりも先に身体を取り込むのである。

 

 その意味では、布教においては「とりあえず信じてもらう」のとは別に、「とりあえずやってみてもらう」というのがあり、その前提として「とりあえずふれておいてもらう」というのがあるのであろう。修行以前に環境として慣れ親しんでいること、つまり特定の宗教にかかわる何かが身の回りにあることは、動機づけとして重要な意味をもつと考えられる。つまり、文化の中からも布教するのである。そうして外堀を埋める。

 たとえばヨーロッパ文化におけるキリスト教を考えてみると、教会建築、聖歌、パンとぶどう酒、あるいはクラシック音楽は神の世界を表現するためにはじまったものであるし、絵画も当初はもっぱら宗教画である。さらには「科学」でさえも、当初の科学者たちは「神が創ったこの世界の素晴らしさを知るために」研究している場合が少なくない。こんな環境にいたら、無縁でいる方が無理があるだろう。

 キリスト教については、布教の過程でヨーロッパがキリスト教化すると同時にキリスト教がヨーロッパ化したと言われるくらいだから、文化と一体になることもまた宗教の宿命なのであろう。一般に宗教は、伝播した先ではもとのそれとは似ても似つかないものに変形する。これはキリスト教でも仏教でも同じである。そうしないと成立しないのであろう。

 逆に言えば、構造的に変形できない宗教は広められる範囲に限界がある。歴史的にイスラム教が日本に入ってこなかったのはそのためだという人もある。キリスト教がこれほど拡大できたのは、おそらく信仰の第一義を内面生活にのみ置くからである。そこでは、頭の中で信じてさえいれば、外面的に何をやっているかは言わば関係がない。「隠れクリスチャン」はクリスチャンだからこそ可能なのである。

 

 神秘体験からずいぶんはなれてしまったが、今回はこのあたりまでとしたい。


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