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フリー哲学者ネコナガのブログ

人間にまつわること、哲学や科学、宗教、社会の問題、生き方のことなど書いています。基本的にエッセイです。

なぜ古典を読まなければならないのか─現代日本人が西洋近代の本を読む理由

読書論・メディア論

 古典とは一言で、時代を超えて受け継がれている書物のことだと言える。問題なのは、なぜ、いかに受け継がれたかということである。ある程度古い本のことを古典と呼ぶなら、本を書いたり出版したりする文化の進展とともに、古典の数は爆発的に増えていいはずである。しかし、そうはなっていない。

 そもそも書物は、なぜ受け継がれるのか。一つには、意図的に受け継がれる場合がある。これは、何らかの理由でどうしてもその本(の内容)を残したい誰かがおり、それが果たされる場合である。

 次に、誰もとくに受け継ぐ熱意はないがなんとなく受け継がれてきたものもある。実は多くはこれであろう。評価は、受け継がれたかどうかにもよるからである。あるいは少しは受け継ぎたいという意図が入っている場合もあるであろうが、多くの場合はよいか悪いかに関係なく、受け継がれてきたから受け継ぐのである。

 あるいは、意図的に受け継がれなかった書物もある。たとえば焚書の場合がそれである。人間は時に、残したくない書物を持つ場合があるということであろう。あるいは反対に、受け継ぎたかったかもしれないのに受け継がれない場合もある。たとえば古代アレクサンドリア図書館の火事は、現代でも一部の人々に何事かを思わせる。

 

 さて、受け継いでどうするのかと言えば、われわれはそれを読むのであろう。書物はその内容に価値があるとみなされる場合が多いから、これは当然のことである。英語では古典、あるいは書物に限らず「時代を超えて受け継がれているもの」をクラシック(classic)と呼ぶが、これはクラス(class)で使うものを指しており、書物の場合にはつまり、教科書のことである。

  すべての本が何かの拍子に消えたら、と想像してみる。その時われわれは、いかに教育を行い、いかに世界を理解し、いかに自らをつくるのであろうか。こうしてみると、書物を受け継ぐというのも人間にとっては重要な慣習であると言える。

 

 いずれにしても、時代を超えて受け継がれているものをまとめた「古典」というカテゴリーは、乱暴なものであり、結果論である。しかし、それこそが実は現実をつくっている。われわれは古典を読んで過去を知るのではなく、実は現在、あるいは未来をつくるのである。 

 

 いつなのかということはハッキリしないが、人間はその歴史上のある時から、生きる世界を物理空間から抽象空間へと移してきた。つまり、五感で感じる世界ではなく、頭の中の世界である。これは「意識」の発生と不可分でもある。文明の発達と不可分でもある。また、言語の使用と不可分でもある。

 一言で言えば、抽象空間の外部化を可能にする表現手段のうち、もっとも伝達が容易なものが言語なのである(言語以外の表現手段は、まとめて「芸術」と呼ばれがちである)。そして、録音がない時代には書き残すしかなかったために、文字情報、そしてそれをまとめた書物というメディアを、われわれはおもに扱ってきた。

 そうしたことを考えれば、われわれが古典を読むのはつまり、外部環境への適応と同様に、内面的環境への適応、つまり抽象空間での共有物を得るためなのである。われわれはそれを教養と呼ぶ。

 

 もっとも、現代でも本を読まない人はいる。そうした人は最低限のことを別の手段で得ているか、あるいは言語空間での社会性を獲得していないだけである。よく知られている通り、日本で現代社会の運用に不可欠な書物の多くは西洋近代のものだが、それは日本社会が政治や経済、法律、あるいは自然観といった次元において、西洋近代由来の多くのものを採用しているという理由による。

 思想は思想以外のものとともにあるから、そうした書物が書かれたところでは、書物の内容は実感そのものでもある。少なくとも、そうした思想の獲得は社会化の過程に暗黙のうちに組み込まれている。しかし、文化や環境、社会化の過程が大きく異なるところでは、ふつうに大人になるだけではそうした知識は獲得されない。別に学ぶ必要があるのである。

 そこで、時間と空間を超えて伝達が可能な言語の特性を利用して、本を読むという手段が登場する。日本では、翻訳を通して多くの西洋の本を読む。それは明治時代の話だ、と思われるかもしれないが、事情は現代でも変わらないのである。

 それはつまり、われわれがいかなる文化や風土の中に生きていようとも、あるいは個人的にどのような思想を持っていようとも、他者と共有可能性、共存可能性が求められる「社会」という次元では、狭い範囲での肉体的経験に根差したもの以上の、目に見えないものを共有している必要があるからである。そして社会的な知識の多くは西洋近代由来のものであるため、われわれは今でも西洋近代の多くの本を読む必要がある。

 

 いずれにしても、われわれはすでに、書物を読まなければやっていられないのである。そして、その結果として書物はこれからも受け継がれるであろう。読書は言語空間での基礎体力づくりであり、古典は教養を得るためのものである。その意味ではどんな読書体験も、最後には役に立っているのであろう。

 

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