フリー哲学者ネコナガのブログ

人間にまつわること、哲学や科学、宗教、社会の問題、生き方のことなど書いています。基本的にエッセイです。

『イスラム・ヘイトか、風刺か―Are you CHARLIE?』とミルの『自由論』

 すこし前の話になるが、フランスの週刊新聞「シャルリ・エブド」が、イスラム教の開祖ムハンマドを風刺したイラストを掲載するということがあった。ご存じの通り、その後、同紙の編集関係者は会議中に襲撃を受けた。

 

 もちろん、報道をきいていればそこからわかることもあるが、このような場合は、一次情報にあたらないことには全体像はみえてこない。当時私は、刊行直後の第三書館編『イスラム・ヘイトか、風刺か―Are you CHARLIE?』を確認した。シャルリ・エブドがこれまでに掲載してきた風刺画が、一部修正済みで掲載されている。ネットでも見られたかもしれないが、ソースの問題もあるし、このようにまとまった形で確認することは重要である。

 本書はアマゾンなどでも手に入るが、私は書店で注文した。書店がどのように扱っているのかを知りたかったからである。これについては、書店によって個別に扱いが異なったようである。

 私が注文した書店では、店頭在庫は持たないが注文は受け付けているとのことだった。ただし、入荷の電話をもらった時には、なるべく早く取りに来てください、そして、袋に入ったまま受け取ってくださいとのことであった。あとでみると、表紙にある風刺画部分は紙で隠されていた。

 もっとも、カバーをかけるかと聞かれたのでお願いしたら、袋から取り出され、紙がはずされ、風刺画があらわれた。このあたりの扱いは、個別の店員には少なくとも共通了解はなかったようである。

 一部の報道によると、この本が出版された時、全国のムスリムが書店でのこの本の扱いを確認しにいったそうである。そこでは、「どこも扱っていなかった、日本人は理解がある」という結論であった。事実は定かではない。

 

 さて、当該の風刺画を確認して思ったことは、多くの方々と同じように、これはやりすぎだというものであった。少なくとも、日本で一般に「風刺」と言った時に想像されるレベルは明らかに超えている。それはたしかにいわゆる「ヘイト」に連なるものであった。

 この件について、報道やその反応で当時キーワードとなっていたのは、「表現の自由」である。あるいは出版の自由、思想の自由かもしれないが、ともかく「自由」ということである。ここで、近代自由主義の古典であるミルの『自由論』をみてみたい。

 

 ミルの『自由論』では、先日ここで書いたような意思の自由の問題ではなく、ミルが序文に書いているように、社会的自由が扱われている。つまり、哲学における個人の自由ではなく、社会思想における市民的自由の問題である。そこでは、社会において個人がどこまで自由を発揮してよいのかが問われる。

 ミルの考えでは、人類社会の発展、成熟には、個人が自由に才能を発揮することが必要である。もっとも、「他者に危害を加えない限りにおいて」。

 ミルの「自由」の発想はしばしば、一言で「愚行権」とまとめられる。つまり、他者からみてどれほど愚かであっても、個人にはそれを行う自由が認められるべきであるとする。それが近代社会の前提となる。「ただし、他者に危害を加えない限りにおいて」。

 では、そもそも他者に危害を加えたかどうかをどのように判断するのか。それを明らかにしておくためにわれわれが大事にしてきたのは、「法律」という発想であった。そこでは、他者を侵害する者の自由は保障されない。いいかえればミルの発想は、(1)それが人類全体に有益である限りにおいて、(2)個人的自由を最大限に尊重するものである。

 

 もっともこれには、「自由には、自由を破壊する自由も含まれるのか」という別の次元の問いもある。それに対してはしかし、「その時あなたがどうなるかはわかりませんが」と答えられるであろう。つまり、社会的自由をどこまで発揮するかということがそもそも個人においては自由であるが、個人の自由な行動が社会的にどのように認知されるかは定かではない。そこでは時に、英雄視されることもあれば、法の裁きを受けたり、社会的信頼が失われたりすることもある。

 つまり、自由とともにあるのは自己責任である。結果はすべて個人に帰属する。何を行おうが勝手だが、世の摂理として、行った人はそれにふさわしい状況におかれることになる。

 

 もっとも、それが一つの社会や国家、文化の中での話なら、規範や法律、慣習といった形で何らかの制約がある。個人が制約を気にするかどうかは別として、共通の参照枠組みは成立しているとみえるのである。面倒なのは、それらを超えた場合である。

 つまり、今回のような場合である。言いかえれば、国際的に他者を侵害する自由が行使された場合について、われわれは未だに「ふつうの対応のしかた」を獲得していないということである。

 それは、「別のもの」とみなされた複数のものが対立するとき、かならず直面する「何が正しいのか」という問いであり、他の物事についても言える。たとえば、侵略や、戦争や、ある文化や思想、宗教、イデオロギーの拡散である。それが、語られる「歴史」を形成する。ふつうのことについてはふつう、歴史には残らないからである。

 もっとも、「国際的」と言えばその語義(international)からして個々の「国」(nation)を想定しているのであるから、アクターが国とは限らないここでは、たんに「世界的」と言った方がよいであろう。これは個々のケースによって態度を決める必要があり、あるいはエコロジーの論理では、たとえば「地球的」となる。「宇宙的」と言う必要のある場合はまだ多くないであろう。

 つまり、今回の場合で言えば、シャルリ・エブドとダーイシュとイスラム教という三つのアクターを少なくとも掲げた方がよいであろうが、そこでの騒ぎが起こった場合、「どのような態度をとるべきか」についての「ふつうの答え」を、われわれはもたないということである。それは、たとえば「世界レベルの憲法」や「地球レベルの文化」や「人類レベルの慣習」といった認知体系をわれわれがまだ持ったことがないと思われるからであり、少なくとも、世界レベルでの法律は成立していないからである。国際法はあれど、国際社会にリヴァイアサンはいないのである。

 こうした理由から生じる問題は近年、たとえばグローバル化により、あるいは個人や集団が世界レベルでなしうることの程度の変化により、様々な形をとって、「問題としてあらわれやすく」なっている。その一つの例がテロリズムの跋扈である(たとえばカルドーの『新戦争論―グローバル時代の組織的暴力』を参照)。

 

 いずれにしても、われわれが少なくとも留意しておくべきなのは上のようなことである。何が正しいのかを問う時代は終わったのであり、言ってみればわれわれは、一個の社会や国家や文化を超えたレベルでの自由を考えて「いなければ」ならない時代にあるということである。

 そこでは、各人が熟考の上でその時正しいと思うことを実行するしかない。そうした視点を持たずして、一つの視点にこだわることを選ぶならば、「歴史は繰り返す」であろう。あるいはプラトンなら、「これだから民主主義は」と言うかもしれない。

 

 まとめれば、どちらが正しいのか、というレベルで議論していては、今回の件は理解できない。現代社会では、すべての問題はあくまでも世界的なのであり、全体的なのである。

 しかし、それらを超えた一つ上の視点に立てば、今回の件はたんにシャルリ・エブドの関係者たちの自由の行使であり、一方でその結果は、少なくとも襲撃される原因の一つを作ったとみられる点で自己責任である、と理解される。筋は通っているのである。

 もっともそれは、テロをどう扱うかとは別の問題である。他の多くの方々と同じく、私個人はテロには断固反対である。しかし、それはつまり、シャルリ・エブドに賛成かどうかとは関係がないのである。

 

 最後に、多くの方々はご承知のことであろうが、ダーイシュによって平和的なムスリムは多大な被害を被っているであろうが、そのことについて「本当のムスリムは」といった言説が増えているのも、問題をはき違えているとみえる。ここでダーイシュの問題とイスラム教一般をひとくくりにすることが問題なのであり、重要なのはそれぞれの視点を理解した上で一つ上の視点から考えることである。もっともそのことについては、マスメディアでの呼称が「イスラム国」であったことにも原因はあるであろう。

 

 いずれにしても、異なる問題は分けて考える必要があるのである。そしていかなる場合であれ、可能な限りあらゆる人の視点に立つことが重要である。

 

イスラム・ヘイトか、風刺か―Are you CHARLIE?

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新戦争論―グローバル時代の組織的暴力

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