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フリー哲学者ネコナガのブログ

人間にまつわること、哲学や科学、宗教、社会の問題、生き方のことなど書いています。基本的にエッセイです。

ホッブズと自由意志の問題、それから哲学と科学の違いなど

 「自由意志」という言葉がある。これは、何を指しているのであろうか。 

 

 私は今、ブログで記事を書いている。しかし、記事を書いているこのあいだに、記事を書くのではなく何か他のことをすることもできたはずである。

 よく知られているように、経済学には「機会費用」という概念がある。そこでは、私が記事を書くという選択をしたことで、他の選択をしていれば得られたであろう利益を失っていると説明される。

 これは、「タイム・イズ・マネー」の発想である(もっとも、そこではマネーを至高のものとみなす態度も暗黙の前提である)。そこでは、「得られたのに」ではない。「現に失っている」とされるのである。つまり、われわれは常に、他の選択をしていれば得られたであろう利益を費やして、あることをしているという。

 

 なんともややこしいことを考えるものだが、いずれにしても、ここで前提となっているのは「私が選択している」ということである。しかし、それは自明ではないだろう。

 コーヒーにするか、紅茶にするか。たとえば私はコーヒーを選んだとする。「紅茶を選ぶこともできたけれど」。「機会費用」に照らして言えば、私は紅茶を選べば得られたであろう効用とひきかえに、コーヒーを選んで何かを得たということであろう。

 しかし、問題は、タイムやマネーへのこだわりがそんなに重要なものかということではない。つまり、「私が紅茶を選ぶことは、本当に可能だったのだろうか」。

 

 これは、哲学で「自由意志問題」と呼ばれるものである。われわれは、自分は自由意志をもっていると、ふつうは考えている。私の行動を決めるのは私である。そして、他者も同じように自由に選択していると考えている。

 ここで「自由」と呼ぶのは、「外から強制されない」というほどの意味である。ランダムに、という意味ではない(もっともわれわれは、ランダムに何かを行うことはできないとふつうは考えられているから、どちらにしても何らかの制約があることには疑いがないようではある)。

 

 ここで、唐突かもしれないが、ホッブズの『リヴァイアサン』にみられる記述をとりあげてみたい。

 一般には、ホッブズ、リヴァイアサンと言えば、社会契約説である。人々は、相互の契約により「リヴァイアサン」という怪物、つまり国家を作る。それは、人々より強い。個々人は生存のために争うが、いざとなったら怪物(=国家権力)が介入するとなれば、人々はおとなしくしている。それゆえに人々は、平和に暮らす。社会が成立する。

 しかし、ホッブズはかなり広範にものを考え、書き残している。『リヴァイアサン』を読むと四部構成のうちの第一部は人間の考察にあてられているし(リヴァイアサンは光文社から新訳が出始めたが、第1部はすでに読める)、私は読んだことはないが、光や音、感覚器官についての本もあるらしい。

 思想的には保守的なホッブズにあって、人間についてのホッブズの考察は、当時とてもラディカルなものであった。ホッブズの人間観は、しばしば「機械論」と呼ばれるものである。

 ホッブズは、実在するのはモノだけであると考えた。モノとは、現代的な言葉で言いかえれば、三次元の空間にあってどこかの位置を占有している存在である。そして、モノは物理的な作用にしたがって動く。そこでは、人間と機械は同じメカニズムで動いている。

 そして、ホッブズは「生命的な行動」と「意思的な行動」を分けている。前者は、たとえば呼吸や消化である。後者は、思考や意思決定が伴う行動である。問題は後者、つまり意思的な行動でだが、ホッブズの考えでは、意思的な行動もまた、機械的な連鎖によって生じている。つまり、思考や意思決定は、「する」ものではなく、「させられる」ものであるとみえる。

 これを受け入れるかはどうかはともかく、ここで注目したいことはつまり、われわれの「意思」はふつう内面を反映していると考えられているが、同じように「外面的環境を反映している」とも考えることができるのである。意思は、内から出るものではなく、外からくるものかもしれない。

 

 自由意志の問題を論じる際によく参照されるのは、リベットによる神経科学での実験である(『マインド・タイム 脳と意識の時間』)。

 リベットは、人々が「自分の意思で」腕を動かす時の脳内状態を観察した。すると、実際に腕が動くよりも前に脳内では指令が出ていた。ここまでは、納得されるであろう。腕が脳の指令で動くことは、現代ならだれでも知っている。

 しかし、リベットは「腕を動かす」段階ではなく、「腕を動かそうとする」、つまり「意思する」段階に注目した。「意思する」よりも前にニューロンが発火しているなら、われわれには意思する能力はないことになる。そして、実験の結果、実際にそうであった。

 つまり、「意思」は「事前の決定」の後追いだったわけである。ホッブズ流に言えば、「われわれには意思するという行為はあっても、意思する能力はない」。ホッブズによれば、「意思」とは、脳内情報処理から行動へ移る際の、最後の処理につけた名前である。少しはホッブズがもっともらしくなってきたのではないか。

 

 しかし、リベット本人を含む一部の人々は、われわれには「事前の決定」を「止める」ことはできるとする。つまり、「しない」ことはできると考える。そこでは、自由意志とは「意思する自由」ではなく「意思しない自由」である。どちらにしても、自由意志がないわけではないようである。

 

 あるいは、われわれが使い分けている言葉である「意識」と「無意識」の関係を考えれば、やはりまだ結論を出すのは早そうである。意識は無意識の後追いかもしれないが、無意識もまた、われわれの一部だからである。

 これは、俗に言う「右脳」「左脳」、あるいは「情動」と「理性」の区別である。そこでは後者は、前者がすでに決めていることがらに説明を与えるだけであるとする。

 

 さて、自由意志はあるのか。この問いを前にして、科学者なら、「まず自由意志を定義せよ」と言うであろう。しかし、定義とはモデル化であるから、「切り捨てるもの」がかならず生まれる。定義を行うのは、他の命題と相互に矛盾しない体系を作り上げるための、便宜的な選択である。

 哲学者は、ここで「切り捨てたもの」に、何か重要なもの、捨て去ってはいけないものが含まれているのではないかと考える。あるいは体系化を行いたいのでもない。哲学者にとっては、本人が抱いた「この」「個別の問いへの」、個人的な「ユーリカ!(わかったぞ!)」が欲しいのである。哲学者を満足させるのは、難しいものである。

 

リヴァイアサン1 (古典新訳文庫)

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マインド・タイム 脳と意識の時間

マインド・タイム 脳と意識の時間

 

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