フリー哲学者ネコナガのブログ

人間にまつわること、哲学や科学、宗教、社会の問題、生き方のことなど書いています。基本的にエッセーです。

宗教とは何か(1)宗教とは宗教でないものではない

 「宗教とは何か」ということについて、少しずつ考えてみようと思う。

 

 「宗教」とは何なのか。われわれは、たしかに何かを宗教と呼んでいる。しかし、「とは何か」ということになると、話は簡単ではない。

 これは、学問的に定義するのも難しければ、一般的な言葉で答えるのも難しいであろう。多くの場合、宗教とは何かと問われたら、「たとえば、キリスト教とか仏教とか」と個別の宗教を挙げるのではないかと思われる。あるいはそれから共通点を探そうとする。

 しかし、あらゆる「宗教」に共通のものは存在するのだろうか。われわれは、それが何であるとき、それがどのようであるとき、あるものを宗教と呼ぶのか。そのことは明らかに自明ではない。宗教の定義は、宗教学者の数だけあると言われている。

 

 上にあげたような、個別の宗教の名前を列挙することで「宗教」なるものを見出そうとする作法は、結局のところ「宗教なるものは存在しない」という態度を表していると言える。つまり、存在するのは個別の宗教だけであり、それらの上位概念たる「宗教」は、名称だけが存在するとみる。

 あるいは、これと対立するものとしてあえて挙げるなら、個別の宗教を超えた「宗教なるもの」が確かに存在するとみる立場もあるだろう。つまり、先に「宗教なるもの」があり、個別の宗教は全てその一つの表れのとみる。どちらをとるかは議論する価値があるだろう。

 一方で、この二つは「個別の宗教は複数ある」という認識は共有しているが、それすらもない場合もある。つまり、ある個別の宗教こそが普遍的実在だとみなす場合である。これは「原理主義」と呼ばれるが、こうなった時、他の宗教に対する非寛容が生じる。宗教は場合によっては、人間生活のあらゆる側面を規定するからである。

 宗教が個人の内面の問題だとされている場合は、人間生活の「それ以外」の領域は宗教からは自由である。しかし、宗教によっては、教義的に、「それ以外」の領域が存在しないものもある。たとえば国家の法律や社会の慣習が、宗教の教義と一致している場合である。そこでは、実践の領域も宗教の制限下にある。そのような場合、内部での連帯は強くなるが、異質なものへの排斥の念は強くなる。「他のもの」が入り込む隙間がないからである。

 しかし、他の宗教に対してどういう態度をとるのか、とってよいのか、とるべきなのかも宗教によっていろいろある。そして、それが教義上明らかにされている場合とされていない場合、あるいは教義にはなくてもコミュニティ内では暗黙的に決まっている場合がある。こうした複雑な実感のからみあいが個別の宗教を成立させている。

 

 もっとも、何かが「宗教である」ことが、われわれにはなぜかわかるとは言えるだろう。それを言葉にするのが難しくとも、われわれには、あるものが「宗教」あるいは「宗教的」であるのかないのかの判断はできている。そこには何か基準があるはずである。

 

 宗教とよく対立するのは「科学」である。科学者の多くは、宗教を過去のものとする。宗教は確かに、たとえば連帯を成り立たせ、想像の力を育て、倫理観を培ってきたと、「歴史的に」宗教に意義があったことは認める。しかし、理性を十分に使えるようになった人類には、もはや宗教は必要ないというのがそこでの考えである。このような発想は、本人が明示的に主張している場合と、暗黙の前提としている場合がある。

 こうした主張に対して、宗教の側からは、たとえば科学も一つの宗教であり、あらゆるイデオロギーも宗教であるとする反論がみられることがある。確かに、あらゆる体系を宗教とみなせば、それは宗教に見えるだろう。もっともそれは、メタファーの持つ性質による。メタファーとは、Aというものを理解するために、AをBであるととらえることによって、AのもつB的側面だけを強調するものだからである(ジョージ・レイコフ/マーク・ジョンソン『レトリックと人生』参照)。

 しかし、ここで重要なのは、それが便宜的な理解ための一つの方法であるということである。AをBであるととらえることが可能でも、AをBであるととらえること「によって」AがBであることを保証するわけではない。たとえば科学を宗教ととらえたところで、科学が宗教であることを証明するわけではない。

 それは、たとえば人間をサルであるととらえたところで、人間がサルであることを証明しているわけではないのと同じである。人間をサルであるととらえると、確かに人間のもつサル的側面が強調される。しかし、それは人間がサルであることの証明ではない。われわれは、人間をふつう人間だと思っており、サルだとは思っていないし、「違い」の方に注目しても、同じくらい見出されるからである。

 つまり、科学を宗教であるととらえるのは自由だが、そう考えたところで、われわれが科学を「科学」と呼び、「科学教」と呼んでいないのはなぜなのかという問題が生じる。「宗教とは何か」という問いに答える糸口は、一つはこのあたりにあるのではないかと思われる。

 もっとも、「科学も一つの宗教である」という宗教の側からの反論が、単に宗教の自己保身のための主張だとする判断は早計である。宗教の側と科学の側では、「宗教とは何か」ということに対する根本的な実感が異なるかもしれないからである。実際には、追求すべきなのはそうした対立の一つ上の視点からの理解である。

 

 いずれにしても、われわれが「あるものが宗教である」ことを判断していると考えられること、そして、あるものが「宗教ではない」ことも同様に判断していると考えられることから、「宗教とは何か」を問うにあたっては「宗教とは何でないか」という問いも掲げておくと、求める答えが得られる可能性は高くなるであろう。 

 

レトリックと人生

レトリックと人生

  • 作者: ジョージ・レイコフ,マーク・ジョンソン,渡部昇一,楠瀬淳三,下谷和幸
  • 出版社/メーカー: 大修館書店
  • 発売日: 1986/02
  • メディア: 単行本
  • 購入: 9人 クリック: 47回
  • この商品を含むブログ (24件) を見る
 

 邦訳タイトルはいまいちだが、認知科学的にメタファーの本質に迫る刺戟的な一冊。著者は認知言語学におけるメタファー理論の提唱者。

 

nekonaga.hatenablog.com


© 2015 ネコナガ (id:nekonaga)
Amazon.co.jpアソシエイト