フリー哲学者ネコナガのブログ

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『骨相学 能力人間学のアルケオロジー』平野亮─学問史における骨相学の意義

 2月に刊行された平野亮『骨相学―能力人間学のアルケオロジー』を読んだ。このブログで最初に紹介する本がなんともマニアックなものになってしまったが、私はタイトルだけで惹かれた。

 「マニアック」というのは、私の個人的な感想ではない。少なくとも日本では「骨相学」はマニアックな領域である。そもそも、とくに学問に関心がなければ、「骨相学」の名前すら知らない人も多いかもしれない。

 

 骨相学とは、18世紀の末にドイツの医師ガルが提唱した学説にはじまるもので、ある人の気質や性格、あるいは生まれ持つもの(nature)が、「骨相」つまり骨の相に現れるという前提から人間を把握しようとする学問である。ここで骨とは「頭蓋骨」を指している。人間の「心」という得体の知れない存在を、少なくとも心は脳と関係があるとみなして、その「中身」と対応する形が外にも現れると考えるのである。だからある人の「中身」を知るために頭蓋骨の形や大きさに注目する。

 このようにきくと、一種の占いのようにも感じるだろう。実際に興味を惹きやすく、「ちょっとやってみる」ことが容易であったため、一般の人々のあいだでもそれなりに流行したという。しかし、19世紀に西洋で隆盛をきわめた骨相学は「非科学的である」として急速にすたれていった。おそらく、骨相学の存在を知っているという人も知っているのはこのあたりまでであろう。

 「骨相学」が日本であまり知られていないのには理由がある。日本に初めて紹介された当時、西洋ではすでにブームが終わっていたのである。つまり、日本人にとっては初めからすでに「過去のもの」であった。今でも、「昔はこんなものもあった」程度に紹介されるのみである。

 しかし、骨相学は本当に非科学的であるのか。著者はその点に注目して、骨相学を学問の歴史、とくに能力心理学の歴史に再定位することを試みる。骨相学を人間の能力を研究するものであるとみなして、心理学あるいは哲学における「能力論」の系譜としてとらえるのである。

 

 人間の精神や本性のはたらきをどのように理解するかというのは、古代より様々に試みられてきた。しかし、依然として明白なパースペクティヴが得られているとは言い難い。なぜなら、人間の精神や本性を考察しているのもまた、人間の精神であり本性であると考えられるからである。つまり、そこでは自分自身を知らなければならない。それが容易ではないことは直感的に理解される。

 今風に言えばつまり、「心」の研究である。 「心」というつかみどころのないものを対象とする以上、心理学の歴史は、裏から言えば「心の研究」というよりも「心を研究するための方法論の研究」であるとも言える。それゆえに「心理学」がいつ始まったとみるかは多分に議論の分かれるところである。

 一例をあげれば、本書でも引用されているが、忘却曲線で有名なエビングハウスは「心理学は長い過去をもっているが、短い歴史しかもっていない」としている。

 そうした中で「能力心理学」とは、人間の「能力」、つまり「人には何ができるのか」ということに注目して心を研究する学問であると言える。著者はその歴史に「骨相学」を位置づけるのである。

 では、どこに位置づけるのか。それを知るには骨相学の始まりをみる必要があるが、結論からいえば著者は、医学における生理学的な「脳」の研究と、哲学における心理学的な「能力」の研究の結節点に「骨相学」が誕生したとするのである。本書のユニークな点はここであろう。

 

 本書によれば、現在「骨相学」としてイメージされるものは、骨相学の創始者のガルによる学説であるというより、その弟子シュプルツハイムによるものであるという。そこで著者は、ガルの生涯と研究をていねいに追っている。

 著者によれば、ガルはそもそも生理学や解剖学を研究しており、心とは生物学的器官としての「脳」の生理(=機能)であるとするきわめて先進的な視座を持っていた。つまりガルの考えは、特定の能力は脳の特定の部位と関連しており、それゆえに「外側」の頭蓋骨の隆起をみることで、脳のどの部位が発達しているか=どんな能力に秀でているかがわかるというものであった。それは「頭蓋骨の隆起」という物理的に観察可能なものを基準とする点で、たしかに「科学的」だったのである。

 しかし、多少ややこしいが、ガルは生理学研究から帰納的に骨相学の発想へと至ったわけではない。骨相学の誕生の直接的契機は、ガルの「観相学的な関心」にあったというのが著者の見解である。ガル自身の著書から引用されているが、ガルは学生時代に出会った友人たちのうち、「出目の人物は決まって記憶力が優れている」ことに関心を持った。そのことが「能力や気質は身体的特徴となって現れるのではないか」とする仮説の発端だったのである。

 「骨相学」を「能力の研究」とみると、その科学的側面や学術的な意義が確かにみえてくる。本書を読めば一般的な「骨相学」のイメージはたしかに一新されるであろう。

 

 一方で、著者は「教育」をもう一つのキーワードとして、骨相学と教育の関係を描くことも主題のひとつとしている。

 上に述べたように、骨相学では頭蓋骨から「個人」を判断している。実はこれも骨相学のユニークな点である。なぜなら、頭蓋骨の測定は確かに長らく行われているが、たとえば人類学では、それはもっぱら人類「集団」を区分するために用いられていたからである。集団の区分ならば、目的は分けることにある。しかし、「個人」を知るならば、それを能力の育成に生かすことができると考えられる。つまり、それぞれの個人に適した教育を行うことができるのである。この点でもあるいは先進的だったと言えるかもしれない。

 実際に、しばしば行われていたのは子どもの頭蓋骨の観察であった。ある子どものどの能力を伸ばすべきか、どのような教育を行うのが望ましいか、両親に教えるのである。著者によれば、教育の現場でも実際に骨相学が用いられたケースが存在するという。つまり、骨相学的教育である。それは骨相学を教えるのではない。骨相学に根差して教えるのである。

 

 ところが、こうした判定には認識論的制約がある。先に述べたように、骨相学は能力に注目した人間観をもっている。しかし、たとえば「個別の能力」とは言っても、どの能力が同じもので、どの能力が独立したものであるかは定かではないのである。つまり、頭蓋骨との対応以前の問題として、各「能力」のリストを作る際に主観性をまぬかれえない。そもそも、知性や感情、性向をすべて「能力」の一言で語ろうとすることが問題をより難しくする。

 しかし、「心」の問題はさておき、19世紀という時代的制約を考えれば、骨相学の「頭蓋骨を観察する」という方法は十分に理解される。現在では、たとえばMRIやPETを使えば生きている人の脳内でも覗き見ることができる。あるいは、その人が生まれ持つもの、つまりDNAの塩基配列は髪の毛一本からでもわかる。しかし、これは程度問題である。脳内の血流を見ても、塩基配列をみても、その「意味」を見出すのは人間であり、能力や気質そのものが「見える」わけではない。その意味で、「頭蓋骨」を見るというのも一つの方法論としてはうなずけるのである。

 骨相学は、当時としては先進的な「科学」だったのかもしれない。

 

 学術書ゆえに気軽に読めるわけではないが、学問的関心のある人には一読をおすすめする。

 

骨相学―能力人間学のアルケオロジー

骨相学―能力人間学のアルケオロジー

 

 


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