フリー哲学者ネコナガのブログ

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「学ぶ」とき何が起こっているのか─体験を通して知るということ

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  前の記事で「暗黙知」について少しふれた。一言でまとめると、「われわれは知っていることのほとんどを言語化していない」ということであった。そして、われわれは言語化したことがないことをいつの間にか知っていることがある。

 

  実は、われわれが言葉で何かを提示されたり、自ら何かを「発見」したりして感動したり、感心したり、納得したりするのは、「知らないことを知った」時ではなく、「知っていたことが言葉になった」時である。知らないことは理解できないし、認識もできない。なぜなら、知らないからである。

 

 言語を通して知ることができることには、限りがある。

 言語を通して何かを伝えうるのは、受け手が、そのとき言語で表現されていることを認識する能力がある場合だけである。言語表現を理解することは、その表現から見える全体像を受け手が想像することなのである。そこで伝わることは、受け手がすでに知っていることに依存する。

 言語とは、部分から全体を想像させることのできる便利な道具なのである。

 言語で表現されたことを受け手が知らない場合、それは単なる言葉の連続と理解される。受け手がすでにそれを知っている場合にのみ、伝えたいことは伝わる。そして納得したり、その表現の巧みさに感心したりする。

 もっとも、われわれは「意味を持たないもの」でも短期的には覚えておくことができるから、誰かの発言を暗記して言葉を発することで、「それについて語っている」かのようにふるまうことはできる。われわれはこのような場合を「ただ暗記している」と呼ぶ。

 「自分の言葉で言え」という批判がみられる場合、それは本人が「知らない」ことについて語っているのである。それは知っていることとは次元が異なる。本人が知っていれば、否が応でもその人なりの表現にならざるをえないのである。それは、自分がすでに泳げるとき、わざわざ他人の泳ぎ方を真似しないのと同じである。

 

 では、人はいかにして知らなかった物事を「知る」のか。

 

 それは、「体験を通して」である。人は体験を通して新しいことを知る。その時、「知っていきかた」はひとつではない。否、実は知っていることすら同じではない。「私とあなたは同じことを知っている」と思うとき、それは言語化した場合にたまたま表現が同じであったか、あるいはふるまいからそう感じ取っただけである。

 ともかく、新しいことを知るには、知りたいことを体験するしかない。そのとき、すでにそれを知っている人がいれば、その人から何かを感じ、その人を真似ることで、いつの間にかその人が知っていることを自分も知っていくことができる。その過程を言語化できる必要はないのである。真似ていれば、自然と身につく。

 たとえば、茶道や武道では、師匠のやっていることを徹底的に真似る。その一つ一つを言葉にする必要はない。師匠も言葉で教える必要はない。ただ師匠の立ち居振る舞いを真似ることで知るのである。伝承の基本は模倣である。「学ぶ」の語源は「まねぶ」であり、真似ることなのである。

 こうしてわれわれは、体験しているうちに「言葉にできないこと」を「知る」ことができる。そのとき、多くの場合は、何を知ったのかすら言語化できない。

 

 では、言葉だけで「学ぶ」ことはできないのだろうか。

 

 たとえば、本を読んで新しい知識を得ることはできないのであろうか。そんなはずはない。では、なぜこれができるのか。

 それは、本を読むとき、われわれは「考えている」からである。つまり、思考も一つの体験なのである。実際に、脳では「運動」(身体を動かす)する時にドーパミンが出ているが、人間ではドーパミン経路は前頭前野、つまり思考をつかさどる部位まで伸びている。思考とは、脳内での運動である。

 われわれは、本から新しい知識を学ぶとき、そこに書かれた言葉を手がかりにして、著者の思考体験をその場で追体験しているのである。つまり、単に文字を追うだけではなく、思考することで、われわれは言葉だけで体験することができるのである。

 

 もっとも、本から得られるのはつまり、少なくとも部分的には言語化可能なものだけである。それは脳内でのみ始まり、脳内で完結する。われわれはそれを「思想」と呼ぶ。思想を学ぶことができるのは、思考という体験を通してのみなのである。

 ヴィトゲンシュタインは『論理哲学論考』の序文で、「この本は、ここに表れている思想をすでに自ら考えたことのある人にだけ理解されるだろう」と書いている。これは思想を表すすべての書物について言えることである。

 学びとは、体験を通して知る過程なのであり、それは言語を通した伝達でもやはり同じなのである。われわれは、学び方を知っている。

 

論理哲学論考 (岩波文庫)

論理哲学論考 (岩波文庫)

 

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