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フリー哲学者ネコナガのブログ

人間にまつわること、哲学や科学、宗教、社会の問題、生き方のことなど書いています。基本的にエッセイです。

「常識」とは何か(1)常識の多くは暗黙知である

人間・自然・社会

 常識とは何だろうか。これを説明するのは簡単ではない。しかし、言葉にできなくとも、人は「私は常識を知っている」と思う。そして、「多くの人が常識を知っている」と知っている。そのこと自体が常識なのである。どういうことか。

 

 一般的には、常識とは「誰もが当然知っていると想定されること」くらいの意味だろう。しかし、「知っている」にもいろいろある。

 たとえば、あなたはボールの投げ方を知っているだろう。うまく、あるいは美しく投げられるかどうかはともかく、特別な事情がない限りあなたはボールを投げられるはずである。つまり、あなたはボールの投げ方を知っている。

 ところが、これは結果論である。あなたが実際にボールを投げたという事実をもって、われわれは「あなたはボールの投げ方を知っている」と言う。しかし、ボールを投げたあなたが、ボールを投げる時にあなたの腕が物理的にどのようにはたらいていたのか、あるいは神経伝達物質がどのように分泌されたか、あるいは脳でどのような情報処理があったかを説明できるかは定かではない。

 つまりわれわれは、できていることを説明できないことがある。それどころか、「言葉にされない知識」は、単に説明を求められる機会が少ないだけであり、その実ほとんどの知識は言葉にできないか、されていない。われわれは、言葉にできないことをいつの間にか知っているのである。われわれが言語化してやりとりしている情報は、あまりにもわずかである。

 

 「常識」と呼ばれるものの大部分は、このように「言語化されないまま知っていること」に属する。

 たとえば、エレベーターでたまたま乗り合わせた見知らぬ人をじろじろ見ない、ということをわれわれは誰かに言葉で教わったわけではない。それどころか、「自分がそれを知っている」ということに、いま言われてはじめて気がついたかもしれない。

 つまり、「知っている」という時、「知っていかた」には少なくとも二種類ある。言葉にすることに成功したことがある場合と、そうでない場合である。その意味では、われわれは自分が知っていることのほとんどを知らないのである。

 「常識」とは、こうした「言語化されていない知識」の膨大な寄せ集めである。それゆえに「常識」が一つ、二つと数えられることはない。つまり、形式的に記述することが難しい。そのかわり、すべてまとめて「常識」と呼ばれる。常識とは、複雑で曖昧な「ふるまいかた」の集合である。

 もちろん、言語化できる常識もある。たとえば「一般常識」と言われるものがある。そこではたとえば「日本の首都は東京である」という知識が「常識」と呼ばれている。しかし、これはこの文章を暗記していることが求められているわけではない。ただ一時的にこの情報を保っておいて別の機会に再現するだけなら、コンピュータにもできる。

 そうではなく、われわれは、たとえば会話をするときに「日本の首都は東京である」という認識を共有しているという前提を求めているのである。そこでは、日本の首都が東京であるのは当然だといったふうに「ふるまっている」ことが求められるのである。

 その意味では、こうした常識も「ふるまい」であり、「日本の首都は東京である」というのは認識状態の特定の一部分を言語で表現しているにすぎない。常識はどこまでいっても「ふるまい」なのである。ただ、それらのうち言語によって表現可能な部分だけを言語を通して伝達することができる。

 

 こうした「言葉にされていないながらも知っている知識」のことをたとえば哲学では「暗黙知」と呼ぶ。常識の大部分は暗黙知である。それは単に「言葉にできない」知識ではなく、「明らかに知っているはずなのに」言葉にできないか、されていない知識である。意識が扱う知識に対して「無意識が扱う知識」と呼んでもよい。

 これに関連して言えば、昨今、「人工知能が人類を凌駕する」という主張がまま聞こえてくるが、これは先走った考えである。現在までのところ「人工知能」と呼ばれているものは、処理能力がどれほど高くともただの機械である。知能ではない。本当の人工知能はまだできていないのである。

 なぜなら、コンピュータはプログラムされていないことは実行できないからである。プログラムを書くのは人間であり、コンピュータに知識を教えるには、教えたい知識が言葉で記述できる必要がある。人間らしいふるまいをさせるには、人間の持っている知識、そしてそれを習得する方法を全般的に教える必要があるのである。

 しかし、ここでみたように、われわれは自分が知っているほとんどのことを言葉にしていない。要するに、コンピュータの処理能力をすごいと思ってしまうのは、コンピュータの土俵で勝負するからである。われわれは自分が知っていると思っているよりもはるかに多くのことを知っているのである。コンピュータは常識を知らない。したがって人間のようにふるまうことすらできない。

 われわれは、ふるまいかたを知っている。時にそれを常識と呼ぶ。 

 

暗黙知の次元 (ちくま学芸文庫)

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