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フリー哲学者ネコナガのブログ

人間にまつわること、哲学や科学、宗教、社会の問題、生き方のことなど書いています。基本的にエッセイです。

「全ては苦である」について

人間・思考・論理

 「全ては苦である」。これは、仏教の思想を代表する言葉の一つとしてよく挙げられるものである。古くは西洋人の仏教観を大きく歪めたものでもあるが(ニヒリズムを通り越して、消え去ってしまうことを目的とするオカルト思想と思われていた)、これについて少し考えてみることにする。

 日本語では「全ては苦しい」と言われることもあるが、漢訳では「一切皆苦」となる(原義に照らせば「一切行苦」である。『岩波 仏教辞典 第二版』)。しかし、いずれにしてもその意味を知るには、「一切(全て)」と「苦」という語がそれぞれ何を指しているのかが問題となるだろう。

 

 まず「一切」であるが、これは文字通りの「一切」であり「全て」である。経典においては、例えば、「眼と色(物体)とである。耳と声とである。鼻と香とである。舌と味とである。身と触(感触)とである。意と法(観念)とである」と説明されている(増谷文雄編訳『阿含経典〈2〉』)。

 このように列挙するのは釈迦の語りの特徴でもあるが、ともかく「何も例外なく全て」である。そして結論から言えば、このことが「一切皆苦」を読み解く鍵となる。後でみるが、実は「全て」について語る時点で、その概念の成立基盤が揺らぐことになるからである(「矛盾とは何か」も参照)。

 ちなみに、なぜ事象ではなく感覚の機能や器官に注目するのかといえば、仏教では「心が全てを生み出している」と考えるからである。物質やこの世界さえも心の産物であり(しかし、心も先にあるのではなく同時に生起する)、だから心を生ぜしめる原因を挙げて「全て」を表現するのである。

 

 次に「苦」である。これは、元々は「逼迫=圧迫して悩ます」ということだが、仏教では二つの用法がある。一つは「楽」に対する「苦」であり、こちらは日常的な実感そのものだと言えるだろう。例えば「楽あれば苦あり」と言うが、つまり一方の対概念としてもう一方が成立する類のものである。

 他方、もう一つの用法が、ここで問題となっている「全ては苦である」と言う時の「苦」である。そもそも「苦」とは、「思い通りにならないこと」を指している。それゆえに、「苦」にも様々な区別をつけることはできるが、その区別は恣意的であり、いずれにしても苦は単に苦である、となる。

 したがって、「苦」とは何であれ何かが思い通りにならないことであり、対応させるなら、「楽」は思い通りになることである。しかし、ここで重要なのは、「楽」も「失われる時には苦である」から、やはり「苦」だということである。だからこそ、根本的には「全ては苦である」ということになる。

 

 もっとも、これだけではまず誤解されるだろう。こうして単に言語の上で「全ては苦である」と言っても、実感が伴わなければ、「この世は苦しい」というありきたりなペシミズムと同一視されうる。そこで、釈迦の説法、あるいは広く仏教において「苦」がいかに説明されているかを次にみてみたい。

 

 仏教で「苦」を説明する際に最も基本的なのは、「四苦」としてまとめられているものである。これは「生・老・病・死」であるが、それぞれ「生れること」「老いること」「病めること」「死ぬこと」である。ここで「生」は「生れること」だが、「生きること」の苦については別の説明を加える。

 それは、愛する者と必ず別れねばならない「愛別離苦」であり、会いたくない人と会わねばならない「怨憎会苦」、そして求めるものが得られない「求不得苦」である。さらに、これらを別の視点から総括する「五取蘊苦」があり、合わせて「八苦」となる(「四苦八苦」という言葉はここに由来する)。

 ここで「五取蘊苦」とは、「五蘊」への執着に起因する苦である。五蘊とは「色・受・想・行・識」で、それぞれ「物質(身体)」「感受作用」「表象作用」「意志作用」「認識作用」である。もっとも、ここでは詳細な区別は重要ではない。要するに「五蘊」は、「ありとあらゆる全て」を指す。

 

 さて、つまり「ありとあらゆる全て」が「思い通りにならない」=「苦」なのであり、「全ては苦である」は、このように本当の意味で「全て」と解釈すべきであることがわかる。だからこそ、伝統的には、これを事実として知った上で、「苦」の根源である「煩悩」を滅する方へと向かうことになる。

 

 もっとも、ここで重要なのは、ここから「個々のどれ一つをとっても苦である」と考えることは、端的に誤りだということである。なぜなら、「全ては苦である」と言うのであれば、そこから「苦であるものはない」も同時に導かれるからである。これは、「全て」と言う時点で避けられないことである。

 というのも、「全ては苦である」=「苦でないものはない」なら、端的に「苦」という概念が成立しなくなってしまうからである。「苦でないもの」があるから「苦」が成立するのであり、「全ては苦である」ならば、それは「苦でないものはない」と同時に「苦であるものはない」をも示すことになる。

 要するに、何であれ「全て」について語る時点で、その概念を認めないということにもなるのである。したがって、「全ては苦である」は、「苦は存在しない」とも読めるのであり、実はここで言われているのは、つまるところ、「そのような区別を行うこと自体が無意味である」ということなのである。

 

  もう少し言えば、苦の原因が「五蘊」にあるのであれば、悟った人を除いては五蘊のない状態はあり得ない以上、誰も彼も常に既に「苦」であり、「したがって苦はない」とも言えるだろう。これは、仏教では「空」と呼んでいるものであるが、つまり「苦」は、ある「と同時に」ないものなのである。

 

 こうしてみれば、「全ては苦である」は、「何かを苦と感じるのは無意味である」と取ることもできるだろう。実際、これにしたがえば、「苦」を感じることはそれ自体が妄想となる(なぜなら、苦でない状態をわれわれは知らないからである)。つまり、全ては苦であるから、何も苦ではないのである。

 

 本書に収録のものを含む初期のお経のいくつかは「お経を読んでみよう」カテゴリーで何度か触れたのでそちらも参照されたい。ちなみに、ここでの「全ては苦である」の解釈はむしろ大乗的である。もっとも、仏教の実践者にとっては上座部と大乗の区別にこだわることにあまり意味はないだろう。


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